信州戦争資料センター第5回展示会「戦争ト玩具展」出展物紹介(上)

信州戦争資料センター

2019年10月07日 12:04

 信州戦争資料センターと公益財団法人八十二文化財団は、戦時下の子どもたちを取り巻いていた環境を実物資料で伝える「戦争ト玩具展」を2019年7月30日から8月16日まで、ギャラリー82(長野県長野市岡田178-13)で開きました。把握した範囲では、長野県内各地はもちろん、北海道から関東、大阪、広島まで、全国から500人以上の方にご来場いただきました。大変ありがとうございました。展示品は90点で、このうち戦時下の実物資料は86点。ご来場いただけなかった方にも雰囲気を感じていただきたいとの思いで、それぞれ写真で紹介させていただきます。

<ごあいさつ>明治維新から太平洋戦争の終わりまで、日本は戦争に明け暮れていました。身近な存在である戦争や軍隊に子どもたちが憧れや親しみを持っていた、そんな時代の軍事関連玩具を集めました。男の子たちに向けては、戦争ごっこに使う鉄かぶとや装甲車、軍艦など、多彩な玩具がありました。女の子向けにも、女性の社会的な立ち位置を教え、慰問や看護、貯蓄といった道で戦争に協力する方法を伝える玩具が。戦局の悪化につれ、子どもたちを戦争遂行に誘導するような意図が見える物も登場します。当時の社会が戦争と隣り合わせで、軍隊に身近な人が関わり、将来は徴兵される現実もあっただけに、子どもの日常に戦争があるのは当たり前だったでしょう。戦争のない時代なら娯楽の道具にすぎない玩具も、そんな環境下では戦意高揚を担い、子どもたちを戦場に導く役割を果たしたのかもしれません。玩具が娯楽の道具にとどまれる、そんな環境を保っていきたいものです。

〇帝国勲章大鑑
昭和14(1939)年1月1日、大日本雄弁会講談社発行
月刊誌「少年倶楽部」付録。実物そのままの色と大きさ。勲章は当時の「偉い人」の肖像に付きものだった。


〇戦艦三笠の模型
戦艦三笠は、日露戦争(1904-1905年)における日本海軍の主力戦艦です。ロシアのバルチック艦隊と戦った日本海海戦(1905年5月27-28日)では、日本の連合艦隊旗艦として東郷平八郎司令長官が乗り込み、指揮しました。海戦は日本軍がほぼ無傷、バルチック艦隊は壊滅という一方的な勝利。このため、日本海海戦や三笠は「強い日本」の象徴として大人気に。退役した三笠は、1926年に横須賀で記念艦として保存されました。この三笠の模型は、月刊誌「少年倶楽部」昭和7(1932)年正月号付録の復刻版(2010年・講談社)です。代表が組み立て、毎日8時間ほど作業して4日がかりで完成。当時の子どもたちの、苦労と楽しさを感じながらの工作でした。同誌には合わせて日本海海戦の話などが載っており、製作の注意では日本男子として途中で投げ出すなといった文も。当時の子どもたちにとって、三笠は憧れだったことに思いをはせつつ、ごらんください。

〇軍艦での記念写真―上郷尋常高等小学校の昭和14(1939)年度卒業記念写真帳にある軍艦での記念写真。記念艦三笠へは修学旅行生の訪問も多く、これも三笠とみられます。〇三笠艦橋の図(複製)―東城鉦太郎画。日本海海戦で砲戦が始まる直前の三笠艦橋の様子。右から4人目が東郷平八郎・連合艦隊司令長官。模型にも長官が立っていた場所の印が。


〇日本陸海軍人双六
大正13(1924)年10月15日、吉田彌七発行。個人商店の発行か。第1次世界大戦で登場した兵器をまとめてある。

上がりは華やかな出世という雰囲気で、リアリティーは少ない絵柄。


〇忠孝双六
昭和2(1927)年1月1日、大日本雄弁会講談社発行。月刊誌「幼年倶楽部」付録。主君のために身を犠牲にした人たち。上がりは、天皇に拝謁できるイメージか。印刷日が大正天皇崩御の日で改元に間に合わず、大正16年のまま発行。まだ白虎隊とか赤穂浪士とか権力に歯向かった人も取り上げており、一般的な忠義話でまとめているあたり、まだゆるさが感じられる。


〇支那事変皇軍大勝双六
昭和14(1939)年1月1日、主婦之友社発行。月刊誌「主婦之友」付録。昭和12(1937)年7月に始まった日中戦争は翌年暮れまでに主な都市を占領したものの、蒋介石が徹底抗戦を続けたために終わりが見えなかった。上がりの表現も苦労した様子だ。

上がりの絵柄では、日本人の男の子が満州国と中国の女の子を守ってやるという図柄。無意識のうちに他国の格下感を植え付ける。


〇皇軍萬歳双六
昭和15(1940)年1月1日、大日本雄弁会講談社発行。月刊誌「少女倶楽部」付録。陸軍省、海軍省の校閲が入っている。日中戦争への女性の協力方法を、慰問袋を通して教える内容。生活規範も強調している。



〇へいたいさん双六
昭和16(1941)年1月1日、小学館発行月刊誌「コクミン二年生」付録。この年の4月から尋常小学校が国民学校と改称されるのを控え、従来の「小学二年生」から改題。低学年向けとあって、少年兵のイメージ画。

実際の戦時下とあってか、大正時代の双六と比べると写実的な絵になっている。


〇事変変わり雛
日中戦争後、初めて迎えた昭和13(1938)年の桃の節句に作られたとみられる変わり雛。軽井沢町で入手。雛人形の部品を転用しています。


〇端午の節句の兵隊人形
日中戦争後、初めて迎えた昭和13(1938)年の端午の節句に作られたとみられる兵隊人形。中国戦線で活躍中の雰囲気を出しています。


〇昭和19(1944)年1月1日、中央農業会発行月刊誌「家の光」付録。日本の勢力範囲にあったアジア各地の、一部の指導者などを紹介。


〇戦時下の小学生の絵
日中戦争が始まって間もなくのころ、長野県内の小学生が描いた絵画と貼り絵です。右と中央の4点は、佐久地方の小学生が昭和12(1937)年7月から始まった日中戦争などを題材に描いたもの。日本軍機による空襲、軍艦や商船、天皇陛下を取り上げています。貼り絵は日本軍の戦艦のようです。左側の2点は、昭和13(1938)年に上田小県地方の小学生が描いた作品です。こいのぼりと空を行く日本軍機、山岳地帯を進む歩兵と戦車、航空機をクレヨンで描いてあります。いずれも、当時知られていた軍艦や飛行機などの特徴をよくとらえています。それだけ、軍隊が身近な存在だったのかもしれません。戦時中には戦争や銃後を題材にした絵画コンクールもあり、子どもたちがたくさんの作品を出品しています。


<戦争ごっこ関連展示>
戦争中の男の子の遊びといえば、戦争ごっこ。ただ、遊びの描写や記録はあまり残っていません。雑誌や紙芝居、木曽高等女学校生の作文などで雰囲気を伝えました。
・童児擬戦の図・風俗画報85号
明治28(1895)年2月10日、東陽堂発行。下段に日清戦争当時の戦争ごっこの様子を描いてあります。正月の松飾やしめ縄を振り回しているようです。


・良い子の友
昭和17(1942)年12月1日発行。コクミン一年生とコクミン二年生を統合した月刊誌。小学館。毎号、軍事絡みの遊びを紹介。


・紙芝居「ヘイタイゴッコ」
人々を戦争に協力させるための政府や団体の宣伝道具として、紙芝居が日中戦争中の昭和14(1939)年ごろから使われています。内容を正しく伝えるため、絵もせりふも印刷して作った国策紙芝居で、大人向けも子ども向けもありました。「ヘイタイゴッコ」は昭和19(1944)年5月30日、日本教育紙芝居協会が発行。次々と現われる子どもたちが各種の兵隊や看護師になって遊びます。最後に日本軍の飛行機が登場。当時、飛行兵育成のため学校でも模型飛行機作りが奨励されていました。関心を向けさせる狙いがあったかもしれません。




出展物紹介(中)へ続きます。

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