昭和18年制定の学校防空業務書―被害防止の主眼は第一に「御真影、勅語謄本」を守ること

 こちらは、昭和18年11月制定の山形県立鶴岡中学校「学校防空業務書」です。同年9月11日に文部省が発表した「学校防空指針」を受けて作ったものです。

 校長の下、教職員学生が一体となって学校を守る「自衛防空」と、地域の防空活動に協力する「校外防空」を位置づけ、それへの態勢作りを求めています。第1章「総則」第2に触れている「自衛防空の本旨」は、被害を最小限度にすることであり、その主眼点は①御真影・勅語謄本・詔書謄本の奉護②生徒の保護③貴重な文献研究資料・重要研究施設の防護④校舎の防護―となっております。

 何はともあれ、御真影をはじめとする皇室関連の品が守るべき第一のものとされているのです。

 では、長野県上田市の小県蚕業学校が昭和19年12月9日、長野県で初めて空襲された時、どんなことがあったかを見てみます。小県蚕業学校の場所はこちら(赤い円内)。比較的中心部から離れてはいますが、市街地の一角ではあります(日中戦争当時の市街地図)。

 同校にも、御真影などを納めている奉安殿がありました。昭和17年当時のモノクロ写真をニューラルネットワークによる自動色付けでカラー化しました。

 こちらが元写真です。

 基本的には失火から御真影などを守るために別に建てたものなので、コンクリートや漆喰など、しっかりしたつくりになっています。

 戦時中の新聞には、実際の被害などが伏せられていて様子が分かりませんので、1988年3月8日付信濃毎日新聞の特集記事を参考にしました。これによると、12月9日午後7時40分すぎ、小県蚕業学校にB29から投下された焼夷弾が集中的に落下し、約80発が命中します。いずれも親爆弾から分解した子爆弾でした。一つの親爆弾に38発の焼夷弾が結束されていたとみられるので、畑に落ちたものなどを考慮すると、3発ほどが落とされたことになります。47分に火災発生。55分には消防隊が出動し、市内全部や近郷の警防団も出動して消火に当たります。

 宿直だった人の証言によりますと「赤、黄、青の花火のような光が、一連になってぽっぽと静かに落下してきた。公使さんに連絡するため廊下に飛び出したとたん、あちこちに火の手が上がって火の海。壁に飛び散った火がダラダラ燃え落ちてくる。火たたきなど何の役にもたたない」。焼夷弾から噴き出したゼリー状の燃料に火が付き、それがどろどろと燃えながら落ちてくる様子が明確に記録されています。

 「当時は、まず御真影を―ということで、消防団員と一緒に隣の蚕専(蚕業専門学校=信州大学繊維学部)へ持ち出すのがやっと」。やはり、御真影の確保が最優先でした。本館や蚕室など10棟880坪が焼け落ち、標本や書物も全滅します。まだ火の入らない倉庫からコメやクルミを持ち出したりといった活動はありました。消防の記録では、川の水を3時間ほど放水していますが「水利不足」で、延焼を防ぐのがやっとだったようです。

 この上田空襲は、実は、なぜ空襲されたのか、何が目標だったかもわかっていません。本土空襲が本格化し始めたごく初期に、なぜ長野県の上田市か。それはともかく、夜間だったことから、御真影優先でも人的被害が出なかったのが幸いでした。

2018年3月11日 記

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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、首都大学東京准教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。

   

2018年03月12日 Posted by 信州戦争資料センター at 00:06収蔵品