戦時下、国家総動員法に基づく金属類回収令で供出させられ再建した善光寺の六地蔵

 師走の善光寺に行ってまいりました。長野市内在住なだけに、ちょっとした時に寄ることができます。この善光寺の境内で参拝者を出迎えるのが六地蔵です。
戦時下、国家総動員法に基づく金属類回収令で供出させられ再建した善光寺の六地蔵


 もともと、1759年に江戸は浅草の信者が願主となって建立して以来、子育て地蔵と呼ばれて親しまれてきました。一番手前の地蔵尊が片足を蓮華座から出しているのは、一刻も早く世の中の救済をしようという思いがこもっているといいます。
戦時下、国家総動員法に基づく金属類回収令で供出させられ再建した善光寺の六地蔵


 ところが、当初建立されたお地蔵さまは、国家総動員法に基づく金属類回収令(昭和16年8月公布)により、供出させられました。昭和19年2月ごろのことです。昭和18年12月に政府が個々の仏像のうち、どれを残すかを慎重に検討。長野県分は、すでに180件ほど供出していましたが、残っていた約200件のうち、善光寺の濡れ仏を除いて全部供出することが「閣議」で決定されました。この中には、今ではおさるの温泉で有名な山ノ内町湯田中の百尺観音も含まれていました。

 戦時下、信濃毎日新聞社の写真部記者だった川上今朝太郎さん(故人)が撮影されたものを集めた写真集「昭和で最も暗かった9年間」には、台座だけになった六地蔵とその周囲の防空壕の写真がありました。
戦時下、国家総動員法に基づく金属類回収令で供出させられ再建した善光寺の六地蔵


 現在の台座を含めた六地蔵の姿です。奥にある大きな仏像が供出されずに残った「濡れ仏」です。
戦時下、国家総動員法に基づく金属類回収令で供出させられ再建した善光寺の六地蔵


 濡れ仏には、善光寺の象徴でもあるハトがなごやかにとまっておりました。
戦時下、国家総動員法に基づく金属類回収令で供出させられ再建した善光寺の六地蔵



当時、この濡れ仏が残ったのは、300年以上昔に作られたという基準に引っかかったようです。それでも、文化や伝統、人々の気持ちのよりどころや思入れなど、お構いなしに飲み込んでいくのが戦争であること、つくづく感じます。そういう意味では、再建された仏像やあらためて鋳造した寺の鐘なども、その由来や経緯を伝えれば立派な戦跡となるのではないかと思います。

2017年12月17日 記

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2017年12月17日 Posted by信州戦争資料センター at 16:42 │戦争の跡