終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに

 第4回展示会で「うちにもいろいろある」と書置きしてくれた須坂市の男性Oさん(昭和17年2月生まれ)のお宅をお尋ねしました。するといきなり「後世に伝えてくれるなら」と、長さ約70センチ、直径1センチほどの通信ケーブルをご寄贈いただきました。「松代大本営の工事で敷設されたものだよ」との説明に目を見張りました。
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 外回りは亜鉛でしょうか。

 3メートル近くあったケーブルの切れかかっていた部分を切断してくれました。中心は銅線の束ですが、内部の線の入り具合は、もっと鋭利なものですぱっと切らないとわかりません。

 さて、長野県の善光寺平に、天皇や皇族、軍、政府機関の一部、日本放送協会などを避難させるため、陸軍が主導して計画、建設した「松代大本営」。昭和19年10月4日に陸軍大臣による工事開始命令が出て、8000人とも言われる朝鮮人労働者(自主渡航に加え、徴用による強制連行を含むとみられる)を中心に松代町、西条村、豊栄村(いずれも現・長野市松代)へ主たる地下壕を建設しました。地図は「図録 松代大本営」から、地図上の赤丸、青丸は当方が加工しました。地図下部の赤丸が松代地区です。

 そして、地図上方の赤丸が送信施設の一つを置く予定だった雁田山(現・小布施町)です。昭和20年7月、大本営陸軍第4通信隊が送り込まれてきて、須坂町鎌田山(地図上の青丸ー現・須坂市)に本部を置きます。この部隊が雁田山から松代まで、諸施設を接続する地下ケーブルの敷設工事を始め、無線アンテナを設置中に終戦となります。

 Oさんによると、当時、谷街道と呼ばれた道路沿いに雁田山に向かう通信ケーブルを敷設していき、沿道の農家で兵士が食事をとっていたということです。Oさん宅にも兵隊さんが寄ったのを覚えているということでした。そして戦後、貴重な資材であるということか、ケーブルは撤去されたといいます。今回ご寄贈いただいたのは、撤去時に父親がゆずってもらったものとのことでした。ちょうど切れかかっていたところで切断した端切れだったのでしょう。終戦間際の工事の記憶とともに、寄贈いただいた品を大切に伝えたいと思います。

 信州戦争資料センターは戦時下の庶民の道具を中心に収集していますが、こうした当時の地域と関連した軍の品も「戦場には前線も後方もない」との考えで大切にしています。松代大本営関連では、地下壕の中で拾われたという瀬戸物の代用缶詰があります。

 また終戦後、最初に松代大本営のことを報じた昭和20年10月26日付の信濃毎日新聞も伊那市の方から寄贈を受けました。

 「謎は解けた 松代の横穴」の見出しが、地元にも知らされなかった工事の雰囲気を伝えています。

 整備の済んでいた地下壕内の写真もあります。

 代表も20年以上前、松代大本営工事の警備にあたっていた部隊の元兵士にお行き会いし、この方が「何かに使えるだろう」と数枚のヒノキの板をやはり須坂の自宅に持ち帰ったというのを見せてもらったことがあります。今回は、実際の松代大本営工事の一端もうかがえる、貴重な発見でした。戦場など遠いことと思っていた長野で大工事が始まり空襲があり…まさに、戦争はすべての人を間接的にも直接的にも巻き込んでいくことを伝えていきたいと思います。

2018年8月27日 記

参考資料「図録 松代大本営」(和田登編著)

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2018年08月27日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:16収蔵品

回覧板に見る戦時下の「供出」-金属や古銭、刀、犬まで 見落とした物は翼賛壮年団の物にという強権も

 日中戦争から太平洋戦争にかけての長野県内の庶民の動きをつかめる回覧板のうち、松本市と小県郡丸子町(現・上田市)のものから、戦時下に行われた「供出」や「寄贈」の記述を拾ってみました。基本的に買いあげではあるものの、脅しのような文句も入れて回収を徹底した様子が浮かびました。まずは昭和16年11月25日配布の松本市元町回覧から。

 国家総動員法に基づく金属類回収令が施行され、本格的に民間の鉄を回収したのがちょうど昭和16年の末です。それまでは公共機関の関連で公園の柵などを撤去していました。回覧では「一般家庭金属類特別回収に関する件」とし、個人名がわかる名札を付けて組長宅へ集めよとしていました。市長の雇った買い出し人を含む買い上げ班を設置、各家庭ごとに伝票を渡して現金化できるようにしていたようです。

 こちらは、同じ元町の昭和16年9月17日の回覧。

 「満蒙開拓青少年団に対する寄付の件」とし、レコードの寄贈(割れたものや古いものを再生して送る)を依頼しています。

 昭和17年2月5日の元町回覧。「軍刀報国の件」と題し、刀の提供を呼びかけました。

 明確に「軍刀として対価を以て購入し陸海軍将校及び軍属に譲渡するものとす」と記載しています。さらに松本警察署で審査の上での買い取りで、審査にできる限り立ち会うようにとし、提出者に対しては「その筋の感謝状を贈呈す」となっています。これなら、きちんと処理がなされたことでしょう。

 昭和18年1月4日、丸子町の「一月常会」と題した資料。「アルミ貨以外の補助貨回収に協力しましょう」として、江戸時代の古銭なども含めて持参するよう呼びかけています。

 寛永通宝の4文銭は2厘、天保通宝は1銭など細かく決めてありました。昭和18年11月にも、あらためて補助貨幣全部引き換えや鉄・銅類の呼びかけをしています。そちらでは金額は示されず、切迫した感じがあります。

 昭和19年5月の丸子町「常会徹底事項」。羊毛供出を呼び掛けており、陸軍買い上げに全部供出とあります。また、軍需用被服とするための「牛馬毛献納運動」を紹介し、こちらは無償での協力としているようです。昭和19年11月の丸子町「常会徹底事項」は銀回収実施を告げ「兵器の増産に欠くことのできない重要物資」とし隣組ごとにとりまとめ役場に持参するようにとしています。大蔵省の感謝状付きの銀買い上げ計算書が実在していますので、役場でまとめて発行したとみられます。白金供出も呼び掛けており、基本的に時計を想定し、代替品を用意するとしています。

 また、同じ常会徹底事項では「栗のイガの供出」もありました。これは、皮をなめすタンニンを抽出する狙いだったようです。空き瓶回収では、現金での買い上げに加え、酒の配給券を配ったとみられます。

 昭和20年2月になると、アルミを含む金属類の回収が行われています。各隣保班長が取りまとめ、とあります。金額はありませんが、この時に出された長野県のチラシには、買い上げ金額が明記してありました。この時期になっても、買い上げシステムは維持されていたようです。



 そして同じ昭和20年2月常会徹底事項の「犬原皮増産並びに狂犬病根絶に関する件」。「犬皮の軍需品としての重要性」「空襲における咬み傷等の危険除去」などを理由として犬の供出を求めています。「供出犬は一定標準により買い上げ」とありますが、飼い主の気持ちはいかばかりだったでしょうか。



 なお、昭和18年の「二月常会」資料には、金属類特別回収を取り上げつつ、申し合わせ事項として「金属回収後の出し忘れ物件はすべて翼賛壮年団有となすこと」との取り決めをしています。

 つまり、残っている金属物件は全部、町の翼賛壮年団の所有品とすることであり、自由に処分してもよいとする白紙委任です。

 翼賛壮年団は大政翼賛会の実行部隊の位置づけでしたが、時として地域で(政府にとって)過剰な行動に出ることもあり、同年末にはほとんど実権を失うことになります。この脅迫ともいえる一文は、当時の翼賛壮年団の勢いを示していたともいえるかもしれません。ここからは推測ですが、その中で、買い上げではない強制的な供出があったと考えることは可能でしょう。

 そして、先の犬の事例ではっきり表れているように、お金さえ払えば良い、ということでもないのが、ひとりひとりの心情だったでしょう。一方で、当時の新聞からは率先して寄付行為をする人も多かったことがわかります。大きな波の中、それぞれが悩み、行動していたのではないでしょうか。

2018年8月23日 記

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2018年08月23日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:30収蔵品

第4回展示会、述べ671人のご来場に感謝! 初めてツイッターによる広がりも実感でき感謝!感謝!

 2018年8月1日―19日の日程で長野市のギャラリー82で開いた第4回展示会「戦時下の信州教育展」は、延べ671人の方においでいただきました。これまでの展示会で最高の人数となり、お越しいただいた皆様に感謝申し上げます。

 会場の感想ノートに45人の方が記入してくださいました。率直な応援のお言葉、今後の励みとなります。センターといっても、収集は代表が個人で実施。パネルや解説文作りなども代表1人が基本。事務局長や家族の応援を得つつの準備で自分たちの意思が原動力ですので、ご来場いただいた方の言葉が大きなモチベーションになります。

 今回、「ツイッターを見て来ました」と書かれた県内外の方が複数おられました。これは初めてのことです。代表がツイッターを意識してぼちぼち発信を始めたのが昨年暮れからで、フォローしていただく方も増えました。ツイートに反応いただいている皆さまに感謝し、今後も良質な情報提供を続けていきたいと思います。

 新聞を見てこられた方、テレビで放映された翌日に多くのご来場があったことなど、マスコミ各社の主催の意思にそむかぬご協力もありがたかったです。そして地道に出している案内状を持参し、今年も来ていただいた方がおられました。職場の仲間、事務局長や妻の知人も来てくれて、本当にうれしいです。やってよかったと思えました。

 ご感想の中では、戦前の教育と軍事の関連について「聞いたことはありましたが、模擬戦までやっていたとは」「教育の統制の恐ろしさをあらためて感じました」「わたしと同じ位の年から戦争の訓練をしたり働いたりしている人たちがいた現実を見て、とても今幸せと感じた」「教育の中に戦争が入り込んでいく様子がリアルに伝わってきた」と、いずれもその異常さを実感していただけたようでした。現代と重ねて考えられる方もおられました。

 ニューラルネットワークによるAIの自動色付けをベースとしたカラー写真。「生き生きとした画像ができていて驚かされました」「カラーだと、よりインパクトがあり、若い方にも印象に残りやすい」「教育の中いつの間にかに戦争が入り込んでいく様子が、カラー写真でより一層読み取れますね」と、理解の助けになったようです。「フォトスキャンは面白かった」「個人の思い出フォトにも使えて良い」と実際に体験していただけて広がりが期待できそうです。 ほかにもさまざまなご提案や激励の言葉を多数いただき、やる気が出てきました。

 また、戦時資料を提供したいという方が何人も申し出ていただけたのも、今回の特徴だったと思います。2015年から展示会を重ね、ようやく信頼性が高まってきてくれたかとうれしい思いです。な、宅老所の皆様が訪れてくださるなど、高齢の皆様には「若いころのことを思い出した」「こんな時もあったっけ」と振り返るきっかけになっていただいたようで、よかったです。

 最後に、カラー写真化の技術公開に関して、早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。加工方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご教授をいただきました。ありがとうございました。また実際の加工にあたった妻と子にも深く感謝。関連展示で協力をいただいた長野相生座ロキシーと監督や応援の皆さま、そしてぎりぎりまで仕事を引き延ばしたにも関わらず驚異的な動きで展示を間に合わせていただいたギャラリー82の皆さま、あらためて感謝申し上げます。

 来年も、また多くの方に出会い、消えかかっている戦争の歴史を伝えることを楽しみにしております。また、ご相談もありましたが、出張展示にもできる限り応じていきたいと思っています。今後とも信州戦争資料センターをよろしくお願いいたします。

2018年8月20日 記

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2018年08月20日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:18イベント報告

81年前の昭和12年8月15日は南京への渡洋爆撃―73年前の昭和20年8月15日は玉音放送も信濃毎日には16日掲載

 今から81年前のきょう、昭和12年8月15日の読売新聞第2号外。上海同盟至急報として、日本海軍による中国は南京への渡洋爆撃を伝えました。

 前線から離れた敵地の根拠地を空襲する「戦略爆撃」でした。7月7日の盧溝橋事件以来、戦ったり停戦、交渉したりまた戦闘したりを繰り返していたのですが、9この爆撃の後、9月5日付の新聞では近衛首相が「長期征戦あえて辞さず」とし、戦闘が本格化するに至っています。

 一方、73年前の昭和20年8月15日。この日の正午には天皇陛下が終戦の詔書を読み上げる放送があり、各新聞社はこの放送を受けて、終戦の詔書を掲載した新聞を作成しています。当時、紙不足のため、本来は14日に印刷して15日朝に配る新聞の配達をせず、放送後に配布したといいます。しかし、手元にある信濃毎日新聞の昭和20年8月15日付紙面は特別変化がありません。正午に重大放送を行うと入った紙面もあるようですが、いずれにしても、終戦の詔書は入っていません。



 昭和20年8月16日付の信濃毎日新聞には、15日の全国紙同様、終戦の詔書が入っています。

 なぜ信濃毎日は普通に昭和20年8月15日の新聞を作って配ってしまったのか、実際のところはわかりません。あくまで推測ですが、もともと交通事情の悪い長野県内で、しかも持分合同によって全国紙の分も引き受け、戦時下の悪条件も重なって配布の手間が一層かかるため、印刷開始時間がかなり繰り上がっていたのではないでしょうか。印刷していたところに重大放送の情報が入ってきたものの、やめるわけにもいかず、お知らせだけ載せた追加の版をつくり、そのまますり切ってしまったのかもしれませんす。あと、ソ連侵攻の情報をできるだけ伝えたいとの考えがあった可能性もあります。

 昭和20年8月15日、他の地方紙はどうだったか。いずれは調べてみたいと思っています。

2018年8月15日 記

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2018年08月15日 Posted by 信州戦争資料センター at 14:46収蔵品

19日までの「戦時下の信州教育展」は長野県内各地の中等学校や高等女学校、計11校の写真を展示しています

 長野市のギャラリー82で19日まで開催中の第4回展示会「戦時下の信州教育展」のメーン展示、戦時下の学校の写真。ニューラルネットワークによる自動色付けと補正作業によってカラー化させた14枚を中心に、32点の写真を展示しています。大部分は初の一般公開で、カラー化の試みも長野県関連写真で初めてです。写真は伊那高等女学校の耐寒武道鍛練です。

 選んだ学校も多岐に渡ります。長野県は広く山脈が区切っていることから、長野市を中心とした北信、上田佐久地方を中心とした東信、松本市を中心とした中信、諏訪・伊那・飯田をまとめた南信と、大きく4地区に区分されます。今回は名前のわかっている学校10校の地域別でみると、以下のようにうまく散らばっています。

 北信―長野商業学校(現・長野商業高校)、長野工業学校(現・長野工業高校)、長野高等女学校(現・長野西高校)
 東信―小県蚕業学校(現・上田東高校)、蓼科農学校(現・蓼科高校)
 中信―南安曇農学校(現・南安曇農業高校)、東筑摩農学校(現・塩尻志学館高校)、木曽中学(現・木曽青峰高校)
 南信―伊那中学(現・伊那北高校)、伊那高等女学校(現・伊那弥生ケ丘高校)

 また、展示品もさまざまな学校の関連品があります。
 ・須坂高等女学校(現・須坂東高校)生徒が使った防空頭巾
 ・飯山中学(現・飯山高校)の勤労報国隊腕章
 ・諏訪中学(現・諏訪清陵高校)で使った銃剣術の木銃
 ・岡谷工業学校(現・岡谷工業高校)校長の大きな書名が入った寄せ書き
 ・伊那中学生が勤労動員に合わせて教科書を封印した気持ちを書いた教科書
 ・伊那中学生の戦時教育令を喜ぶはがき
 ・伊那中学報国団で買った陸軍幼年学校の入試問題集

 そして国民学校関連で、現・茅野市の永明尋常高等小学校の昭和11年修学旅行ガイドと、下諏訪町東国民学校の昭和17年就学旅行の感想文、学校不明の海軍兵学校進学の決意を表明する国民学校5年生のはがきを置いてあります。

 展示品は、ぎりぎりまで集めました。東筑摩農学校の卒業記念アルバムを入手したのは7月に入ってから。最初は年代がわからず困っていたのですが、ある写真の日めくりカレンダーで「2598年 2月11日」を確認し、昭和12年度のものと判明しました。ちなみに、年代別でいきますと、以下のようになります。

 昭和 7年度―木曽中学
 昭和 8年度―長野商業学校
 昭和10年ころ―校名不詳女学校
 昭和11年度―長野工業学校
 昭和12年度―東筑摩農学校
 昭和13年度―長野高等女学校、伊那中学、伊那高等女学校
 昭和16年ころ―蓼科農学校
 昭和17年度―小県蚕業学校、南安曇農学校

 満州事変当時から日中戦争、太平洋戦争と、年代を順に追っていくことが可能になっています。地域、時期ともうまく散らばり、変化を見て取れると思います。ちなみに、小県蚕業学校に在籍していた方から伺ったところ、昭和17年のアルバムがたぶん最後で、それからは作る余裕がなかったとおっしゃっておられました。ただ、昭和17年度までは、教練の強化や勤労奉仕の導入など、どんどん忙しくはなりましたが、まだ学生が学生として生活できた時代でした。昭和18年度以降は急激に学校の軍隊化が進み、昭和20年4月には完全に学業停止、学生も奉仕から動員になっていったのです。

 そんな貴重な昭和17年度の小県蚕業学校のアルバムは、生徒のアルバム委員による撮影。おかげで鬱される側も自然な雰囲気で、戦時下でもまだ活き活きした学生の姿を追いかけられる、貴重な写真となりました。

 写真は、体力章検定の幅跳び。地面に這うようにして撮影しています。

 最後に、こちらの写真はぎりぎりで入手し、展示に間に合わせた東筑摩農学校の生徒たちです。撮影日時は昭和13年2月11日。

 会場でよく見ていただきたのが、黒板の寄せ書き。「彼女元気で」といった若者のしゃれっけのある書き込みに重なるように「堅忍持久 挙国一致」といった軍国のスローガンも並んでいます。この生徒たちは、おそらくこの軍国の掛け声に押されて、それぞれの持ち場に散っていったのでしょう。くったくない笑顔のまま、元気で生き抜いていてくれと思わずにはいられません。

2018年8月14日 記

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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。

※他の自動色付け写真はこちらの一覧からごらんください。  

2018年08月14日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:57イベント報告

太平洋戦争真っ最中の昭和18年、35歳無職息子に困った親が頼ったのは「国家総動員法にもとづく国民徴用令」

 日中戦争が始まって間もない昭和13(1938)年4月に公布された国家総動員法には、政府が必要なときに帝国臣民を徴用して軍需産業などに強制的に従事させる勅令を定められるとなっていました。そしてこの条項に基づき昭和14(1939)年7月に公布・施行されたのが「国民徴用令」でした。徴用された人は、指定の期日から指定の場所で働かねばなりませんでした。徴用されている間は、転職も許されませんでした。告知書が白い紙だったため、徴兵の「赤紙」に対し「白紙召集」と呼ばれました。

 こちらは、長野県諏訪郡上諏訪町の女性が日本無線株式会社諏訪工場へ徴用されたときの「徴用告知書」です。受領証が切り取られているので、実際に本人の手に渡り出向いたのでしょう。

 政府は当初、女性の徴用を家制度との関連で避けていたものの、このころからは実施していました。また、最初は国内だけを対象としていた徴用でしたが、朝鮮総督府が昭和19(1944)年2月8日から朝鮮半島に国民徴用令を適用。まずは主要な工場鉱山で働いている人を「現員徴用」し、その後一般徴用も実施しています。

 一般的に徴用は、それまでの仕事とは無関係で収入が減ることも多かったため敬遠され、役場に徴用されないよう相談に行く人もいました。また、小売店の整理で配給所として残された店の経営者に徴用が来て混乱する―といった事態もありました。徴用から逃れるため、偽装的に事務員などに就職する女性もいました。 

 ところが、そんな徴用を太平洋戦争真っただ中の昭和18(1943)年、遊び息子の対策に利用しようとした人が。同年5月31日付信濃毎日新聞より、著作権切れを受け転載しました(適宜、難しい字を現代字やひらがなに直しています。句読点とかっこも補いました)。

 ▼国民皆働の国策にも関わらず、いわゆる親泣かせの遊人が未だ全く姿を消したとはいえず、従来ならば親元から警察へ説諭願いを提出したところ、近頃は職業指導所へせがれの徴用願いを提出して来るものが時折あるが、
 ▼職業指導所としてはこれらを徴用したところで徴用工場の荷厄介になり工場の生産能率を低下せしめることにならぬとも限らぬのをおもんばかり、取締りの厳重な軍工場へでも徴用して練ることも考慮している。
 ▼たどたどしい字が書かれた親からのせがれ徴用願いの一例を見ると「せがれは35歳にもなりますが、嫁ももらわず昼は家の農業も手伝わずに寝ているだけで、夜になるとカフェーへ出かけて行き、何かして金が出るとどこかへ行ってしまい金がなくなるとまた戻ってくるような有様で
 ▼身が治まらず国民全体が働かねばならぬというとき近所に対して恥ずかしくもあり、また口惜しくもあります。どこかの工場へ徴用して一定の場所で働かせてもらうわけにはまいりませんでしょうか。お願いします」【小諸】

 戦時中だろうとなんだろうと、世の中の渦からするりと抜けたような人がいたんだなあと。しかも「一例」。何人もおったのか!

2018年8月10日 記
2019年8月24日 追記

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2018年08月10日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:40収蔵品

展示会を支えてくれた家族の話―案内状作りからモノクロのカラー化まで、皆の力のおかげ「ありがとう」

 長野市のギャラリー82で19日までの日程で開催中の第4回展示会「戦時下の信州教育展」。企画の相談から支えてくれる事務局長はもちろん、ギャラリー82や相生座の皆さんなど、たくさんの人に支えてもらって今年も実現できました。そして毎回少しづつ世話になっている家族に、今年は全面的に支えてもらいました。

 こちらは、会期が始まってから、過去に来場してくれた方々へ出した案内状です。

 正直、準備から開催まででへとへと。その後は準備のため代休を使ってあったのでフルで仕事。せっかく来ていただいてくださっている人たちに、なんとか案内を出したい、と思っても体が気力が。

 そんな弱音を吐いていたら、「手伝ってやるから!」と妻と子が叱咤してくれました。それで手元にあった資材を使い、何とか完成させました。発送も翌日、妻がやってくれました。封筒の大きさが違うのは、とにかく手元のもので、と一気に作ったからです。

 今回は高校への発送作業でも一人でやっているところを手伝ってもらいました。また、色付け写真は3人の共同作業で今回の目玉になりました。

 ここまで家族に支えられたのは今までで一番だった。ありがたい。

 同時に、普段からの理解を得ておくことが今更に大切だと思いました。

 ここであらためて「ありがとう」。

 「案内来たから尋ねさせてもらった」という方もおり、涙の出る思いです。

 19日まで、会期もちょうど半ば。これからもっともっとたくさんの人に来てもらいたい。

 週末、ぜひ遠方からもお越しください。代表が迎えさせていただきます。

2018年8月9日 記

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2018年08月09日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:29イベント報告

今も続く日露戦争の黄金伝説―韓国企業が投資詐欺疑い―ドンスコイの金塊担保に仮想通貨発行計画

 日露戦争の山場、明治38年5月の日本海海戦。ロシアのバルチック艦隊が日本の連合艦隊に壊滅させられたこの海戦には、黄金伝説が付きまとってきました。2018年8月8日の信濃毎日新聞に、韓国企業が投資詐欺疑いで捜索を受けたとの記事があったのですが、これがその財宝関連。記事によると、巡洋艦ドミトリー・ドンスコイが韓国領海で見つかり、巨額の金貨や金塊があるとのうわさがあったことから「財宝船」と騒がれていたと。この船を見つけた会社が、金塊を担保に仮想通貨を発行する投資金を集めたのが詐欺の容疑だとのことでした。

 バルチック艦隊にまつわる財宝騒ぎは、古くからあります。日本では昭和7年にニューヨークタイムスが巡洋艦ナヒモフを「金貨を満載した艦隊の会計艦だった」と報じたのを機に、さまざまなナヒモフ号引き揚げ団体が生まれ、それぞれが出資金を集めて金塊引き揚げに乗り出す騒ぎに。翌年1月にはナヒモフ号発見となるものの、9月には早くも横領事件で捜査を受けたりしています。

 こちらは、少なくとも昭和10年末まで存続した「ナヒモフ号積載金貨引揚後援会」の報告書や事業継続費用の振込用紙などです。

 報告によると、なぜか昭和8年にはほとんど何もせず、昭和9年は悪天候などで手つかず。ようやく10年になって艦体に入ることができ船体の一部を引き上げたものの、財宝確認はできずでした。そして資金を使い果たしているので、さらに出資をとの手紙でした(この手紙を受け取った人はここであきらめた、というわけですね)。

 ほかにも戦艦スワロフ、巡洋艦リューリック、輸送船イルティッシュと、さまざまな艦名が出ては夢だけ掻き立てていました。昭和55年には笹川良一氏が30億円を出してナヒモフ号の金塊探しをやりましたが、これもうまくいかなかったようです。

 それにしても、確認できない話はうそだと思えても否定はできないという、人間の心理をうまく突く話です。最近も山下財宝をフィリピンで探していて捕まった話もありましたしね。それにしても、沈没艦の金塊と仮想通貨という組合せ。そこに「ある」と信じることだけが存在を支えているという意味で、なかなかよくできた話。庶民には、夢は夢のままが良いようです。

2018年8月8日 記

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2018年08月08日 Posted by 信州戦争資料センター at 20:50収蔵品

第4回展示会・会場で―貴重な資料のご寄附、戦時記録の解釈、国民学校の戦技訓練のお話…やって良かった

 第4回展示会、5日目にして代表もやっと会場でご案内ができました。きょうは30人余り。既に100人くらいの方に来ていただいているご様子。八十二文化財団さんの御案内、各マスコミさまに感謝です。そしてわたしが家族の協力で出した案内状で着ていただいた皆様のお姿、本当に涙の出る思いです。

 本日、一番の出来事は、中野市からこられた男性(85)が、2点の戦時資料をご寄贈してくださったこと。

 一つは中野町役場が昭和16年10月13日、各隣組で回覧して備品とするようにとした回覧号外付きの「週報・家庭防空の手引」。この時期の市町村の対応を伝える貴重な資料です。もう一つは、お父様が使っていた紙巻きたばこ作り機。志賀高原に生えている「コバ」の葉を集め、代用タバコにして吸っていたとか。

 また、水戸の艦砲射撃の音が「ズウーン」と聞こえたという話も。後日、現地に行かれることがあり「そりゃひどかった」と聞いて納得されたとのことです。

 そしてこの男性の体験も面白い。昭和20年に国民学校6年生ということでしたが、そのころ授業で「戦技訓練」をやったと。長さ1メートルほどの棍棒を各自が用意。教室の後ろに並べてあり、戦技訓練では横にした杉丸太に縄を巻いたものを全力で棍棒でたたくというものだったと。「最初、握りよいものを用意したら細すぎると怒られ、やっと両手で握れるナラの丸太を使った。これで米兵をぶっ叩くんだと」「授業で認めてもらわないと卒業できないから、全力で大声を出したたたいた」―。子供に米兵を棒で殴れと教えた教員。何を考えてのことだったのでしょう。

 別の終戦直後生まれの男性からは、会場に展示してある防空ずきんをご覧になられ、「冬は、防寒のためこれをかぶって学校へ行った。後ろの尖ったところを引っ張るいたずらがはやりました」と。

 戦争のことで聞きたいことがあるとの問い合わせがあり、会場に来てもらった女性。お父様の軍隊経歴を取り寄せて聖書したが、腑に落ちない部分があるとのこと。わかる範囲で当時の軍の編成や松本の連隊の動きなど、説明してご納得いただきました。少しの知識ですが、役立って良かったです。

 ほかにも資料がうちにもあると連絡いただいており、ありがたいことです。責任を持ち収集し、意義付けをして、後世に伝えるのがわたしの役割だと、あらためて感じた次第です。

 カラー化写真は、感じ入ってくださる方が多いです。中には、奉安殿や分列行進を最近とってきた写真と勘違いされる方もおり、その効果は絶大のようです。

 展示は19日までです。代表は少なくとも11日と19日(午後3時まで)は一日中、12日も体調の許す限り、会場にいる予定です。遠方から来られる方、団体で来られる方など、12、14、15は対応可能ですので、ツイッターやブログの「オーナーへ連絡」からご連絡ください。

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2018年08月05日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:43イベント報告

第4回展示会「戦時下の信州教育展」展示品紹介その3ー各種実物資料、カラー化体験コーナー

 信州戦争資料センターと八十二文化財団共催の展示会「戦時下の信州教育展」は、2018年8月1日から長野県長野市のギャラリー82で19日まで開催中です。平日午前9時半―午後6時、土日曜午前10時―午後5時(最終日は午後3時)。入場無料です。開催場所はギャラリー82。長野駅や長野バスターミナルから徒歩圏内です。今回、写真34点、戦時資料34点を展示しています。いずれも信州戦争資料センターが収蔵しています。

 こちらは「修身掛図」。もともとは18枚の図面をまとめてとじてあったのですが劣化が激しく、1枚ずつにわけて裏打ちしました。掛図というとなじみが薄いかもしれませんが、まあ、授業の理解を助けるためのスライドのようなものと。対照する教科書が手に入りませんでしたので、雰囲気だけお感じください。神による国つくりや伊勢神宮、体を鍛える男女の図です。

 こちらは、教育勅語(おそらく複製)と教育勅語の解説書、国史などの教科書、体力章検定で使った規格手榴弾などを並べてあります。現場ではアクリルケースで覆ってありますが、ここではわかりやすいようにケースをかぶせる前の写真です。

 そして、もう一つ大事な資料、「2・4事件」を報じる新聞などを解説文とともに置いておきました。長野県の教育は、教員赤化事件ともいわれたこの2・4事件を機に国粋の方向に大きく舵を切ります。そんな教育全体を取り巻く雰囲気をおつかみください。

 こちらは、修学旅行の変化です。同じ諏訪郡内の小学校で比較。昭和11年は5泊5日の関西の旅、昭和17年は3泊2日の伊勢や橿原神宮などの参拝旅行と変化した様子を一覧表や手書きの地図、当時の資料で紹介します。

 修学旅行については、鉄道省が昭和12年には伊勢への参拝には料金2割引きとするなど奨励していました。ところが日中戦争がいつ終わるか見通しがたたなくなっていた昭和15年、文部省が中等学校と国民学校の旅行は3日以内と通牒。輸送能力の問題と消費規制のためです。そんな歴史を感じていただければ幸いです。昭和17年の修学旅行については、論文として紹介したいと思っています。

 最後の展示台は、戦争終盤をイメージした展示です。岡谷工業学校長の大きな書名がある寄せ書き、伊那飛行場建設に動員された伊那中学の生徒が決意を裏表紙に書いた化学の教科書、海軍兵学校に進むと宣言する国民学校5年生の子供の手紙などです。

 展示台はいずれもアクリルケースで覆ってありますが、よくみることが出来ますので、ご安心ください。

 最後に、モノクロ写真カラー化についての解説と体験コーナーを用意しました。

 2015年に発行した本の販売も行っています。会場に展示した写真の一部も掲載していますので、見本を開いてみてください。



 そして、ぜひ現場においてあるノートへご感想をお書きください。励みや参考になります。また、ご住所とお名前をご記入いただいた方には、次回以降のイベント案内を送らせていただきます。

 あす8月5日は代表が会場にいますので、お気軽にお尋ねください。

 なお、展示品はすべて撮影OKです。ぜひ、ツイッターやFBなどのSNSで発信してください。あ、代表の撮影だけはご遠慮ください(笑)

2018年8月4日 記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。

※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。画像の加工方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。体験漫画で紹介していますので、現場でご覧ください。
  

2018年08月04日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:22イベント報告