信州戦争資料センター第5回展示会「戦争ト玩具展」出展物紹(下)

2019年の信州戦争資料センター第5回展示会「戦争ト玩具展」出展物紹介の続きです。出展物紹介(上)出展物紹介(中)からご覧ください。

〇太平洋戦争当時とみられる玩具
 日中戦争当時の玩具に比べ、材質は木製や土製、紙製、セルロイドといった代用品に。色彩も乏しく。防空や慰問、さらには米英撃滅のスローガンと、戦争に直接つながる品が目立ちます。

・木製の戦車―砲塔部分に弾の薄い円盤を入れて、はじき飛ばせます。星のシールは後世の物か。昭和13(1938)年8月14日に内地向け金属玩具製造禁止令が出た後の品か。・セルロイド製の軍艦―内地向け金属玩具製造禁止令以後、セルロイド玩具が流行。木綿のぼろ布を使い資源節約も。昭和18(1943)年ごろには姿を消したと。・焼き物のベーゴマ―内地向け金属玩具製造禁止令が出て、金属の塊であるベーゴマは作れなくなったのでしょう。ぶつけあって大丈夫?

・防空装備の女性の土人形―岡山県からのもの。防空バケツに防空ずきん、もんぺ姿の女性。飾っておくものか。これでどんな遊びをしたのか。

・水絵アソビ―太平洋戦争当時の玩具。水を塗るだけで色が浮かび上がるアイデア商品。昔話の絵もありますが、「米英撃滅」などのスローガンも入っています。


〇紙芝居「オモチャの出征」
人々を戦争に協力させるため、政府や団体の宣伝道具として、紙芝居が日中戦争中の昭和14(1939)年ごろから使われています。内容を正しく伝えるため、絵もせりふも印刷して作った国策紙芝居で、大人向けも子ども向けもありました。「オモチャの出征」は昭和17(1942)年3月5日、日本教育紙芝居協会が発行しました。当時のおもちゃの雰囲気が伝わります。日中戦争中、武器を作る資源確保のため、政府は国家総動員法に基づく金属類回収令を公布。昭和16(1941)年秋から、各家庭の金属製品が半ば強制的に買い上げられるように。オモチャの出征では金属類回収令に基づく金属供出と、戦費の国債を買う貯蓄を取り上げています。発行は太平洋戦争開戦後、間もなく。子ども向けの紙芝居ではあっても、国策への協力意識を親子ともども浸透させる狙いがあったとみられます。

・金属供出で「出征」する玩具を残った玩具が盛大に送り出します。来場者からは「闇のトイストーリー」といった感想が寄せられました。

・見向きもされていなかった貯金箱は、子どもの貯蓄で大喜び。


<「こうあるべし」を伝えた玩具>
・婦人生いたち双六―大正7(1918)年1月1日、実業之日本社発行月刊誌「婦人世界」付録。女性が生まれてから結婚までをたどる。女性の道徳規範を教えています。


・子だから双六―大正8(1919)年1月1日、実業之日本社発行月刊誌「婦人世界」付録。結婚から出産まで。女中などを使う上流家庭婦人の姿を描く。胎教と言いつつ、女性の精神修養を強調します。感情表現もご法度と。上がりも、中央に座すのは夫。


・翼賛双六―昭和15(1940)年12月28日、漫画社発行。同年10月12日発足の大政翼賛会が指導、新日本漫画家協会の企画、製作。大政翼賛会宣伝用フリー素材「大和一家」を使っています。長谷川町子も協会の一員だった。菓子店員のそっけない表情は不自然で、指導を受け修正されたか。発足したばかりの大政翼賛会宣伝を狙っているが組織の性格もまとまっていないせいか、上がりの表現も意味不明。ゲーム製も疑問符がつく長時間かかる内容です。


・愛国イロハカルタ―昭和17(1942)年末、戦意高揚を狙い小倉百人一首に代わる「愛国百人一首」を内閣情報局や大政翼賛会、文学報国会が中心となって作成します。引き続き、子ども向けに同様の効果を狙う「愛国いろはかるた」が企画されました。内閣情報局認定で日本少国民文化協会の制定、日本玩具統制協会が発行しています。正月に間に合わず、昭和19(1944)年2月10日に発売。絵柄と漢字かなづかいの違いで、国民学校高学年向きと低学年向きの2種類。それぞれ普通のかるたと、大きな1枚の紙に印刷した札を自分で切り取るものがありました。展示品は、紙を切って作ったかるたです。句は共通で、昭和18(1943)年3-5月に公募、26万句が寄せられ、半数は子どもの作品でした。しかし、公募から選ばれたのは13句だけで、そのうち一つは陸軍報道部長の作品。子ども向けスローガンといった内容になっています。




〇体験コーナー
・メンソレータム販促玩具の軍帽(複製)―展示してある実物のカラーコピーを画用紙で裏打ちしました。ご自由にかぶって写真撮影などお楽しみいただきました。・平和日の丸プロペラ―回し(戦時下の実物)―昭和15(1940)年ごろから作られたとみられる玩具。片手で本体を持ち、反対の手で爆弾をイメージした丸棒を持ちます。丸棒を本体に直行させて当て、でこぼこを前後にこすると、振動が伝わってプロペラが回転します。正面から見ると、回転するプロペラが日の丸に見えます。棒を持つ手の指で本体をはさむようにしてこすると、安定して回るようです。代表が会場にいるときは、直接指導させていただきました。机上にある、当時の説明文コピーもごらんください。「大和心の血の一脈を通わす」などの説明文を読むと、勇ましい言葉で戦時下の風潮に乗り、売りこむ様子が伝わってきます。



2020年も開催予定です。多くの方のお越しをお待ちしております。出張展示のご相談も承ります。ご連絡ください。

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2019年10月07日 Posted by 信州戦争資料センター at 12:05イベント報告

信州戦争資料センター第5回展示会「戦争ト玩具展」出展物紹介(中)

2019年の信州戦争資料センター第5回展示会「戦争ト玩具展」出展物紹介の続きです。出展物紹介(上)からご覧ください。

〇おもちゃ屋・風俗画報88号
明治28(1895)年3月25日、東陽堂発行。日清戦争に合わせ、銃やサーベルなどの軍事関連おもちゃを並べた商店。装備を整え、上機嫌の子どもの姿も。


〇日露戦争飾立(複製)
浅草の版画商「滝谷板」が明治37年に発行。絵を切り抜き台紙に張る立版古の一つ。具体的な戦闘場面ではなく、雰囲気を楽しんだようです。


〇玩具やゲーム、スポーツ用品などのカタログ類。
・スポーツ用品カタログ―昭和2年3月発行。青年学校などに向けて、軍事教練で使う品を中心に紹介。・東京通信第610号―大日本雄弁会講談社の通販カタログ。日中戦争中の昭和12(1937)年12月27日発行。中ページの幻灯機では、支那事変フィルムも扱っています。・松屋グラフの羽子板広告―昭和13(1938)年12月5日に発行した通販カタログ。正月用の羽子板に、軍人や飛行機が登場しています。・阪急の特選玩具広告―昭和15(1940)年5月発行の阪急の通販カタログ。慰問品と並んで兵隊人形や軍装品セット、木製装甲車などを売りこんでいます。・三越の慰問用ゲーム広告―昭和16(1941)年1月20日に発行した三越の通販カタログ。ゲームを慰問用として紹介しつつ「御家庭内においても楽しくお遊びになれます」・浪花屋月報―玩具問屋から商店への取引案内。太平洋戦争中の昭和17(1942)年5月25日発行。紙製玩具がほとんど。わずかにセルロイド製があり、木製も3種だけ。


 戦時下の玩具は日中戦争初期だと、アンチモニーなど金属を使った商品がまだ残っています。が、やがて金属使用が禁止となって、セルロイドなどの代用品や、木製、紙製といった品ばかりに。戦争の激化に伴って物資が不足、節約を唱えられるようになってくると、玩具を売りこむのがはばかられたのか、表向きには戦地への慰問用としつつ、家庭でも楽しめる―との表記も登場します。太平洋戦争末期になると子どもたちも勤労奉仕などで忙しくなります。物資面では、紙類でさえ統制が厳しくなっています。雑誌の付録も既になくなっており、既製品の玩具は、わずかしか手に入らなかったでしょう。

〇日中戦争当時とみられる玩具
・日本軍の活躍を祝う羽子板―昭和13(1938)年の正月用か。日中戦争で南京陥落を祝った雰囲気を「皇軍万歳」の提灯が伝えます。たすきは「銃後護持」でしょうか。・乃木将軍の土人形―日露戦争の旅順要塞攻撃などで知られる陸軍の指揮官。東郷平八郎と並び、戦後はもてはやされます。松本市内からの出物。

・鉄かぶととサーベル―アルミ製とみられる戦争ごっこ用の道具。当時、紙製の鉄かぶともありました。サーベルは細部も丁寧に再現。

・軍人合わせ、軍人図柄メンコ―いずれも昭和初期か。点数や兵器の名前などが入っているので、いろんな遊び方ができたでしょう。

・木製の装甲車―昭和10(1935)年ころのものか。満州事変当時に活躍したいくつかの装甲車の特徴をまとめた架空の兵器。元々は丁寧な仕上げの高級品。動かすと発砲音がします。・ブリキ製の戦車―昭和初期のものか。第一次世界大戦当時に出現した初期の戦車の特徴をまとめたようなデザイン。ゼンマイで蛇行しながら走ったようです。

・軍事図柄の食器―歩兵や連隊旗などをあしらっています。ただの車の絵柄で、旭日旗と日章旗を入れているものも。

・海戦ゲーム―説明文に「非常時」との表現があり、昭和8(1933)年前後のおもちゃか。日米海軍が向かい合って戦う内容。教育ゲーム社。


〇販売促進用の玩具
 商品の販売促進用として、商品名や会社名を入れた広告代わりの玩具が、戦前も多数存在しました。その中の、軍事関連の販促用玩具を集めました。兵隊や水兵の帽子、肩章、ガスマスクのお面、戦車の塗り絵といった玩具のほか、勤倹貯蓄を呼びかける貯金箱といった実用的な品も。薬の販促用小型紙芝居「ドウブツトナリグミ」は、隣組が力を合わせて防空や兵士の慰問に活躍する内容。昭和16(1941)年ごろのものと推定され、戦時下の銃後教育に役立てる狙いもあったとみられます。薬のおまけの紙風船も、戦時下の標語だらけです。「チョキンアソビ」は郵便局を描いてあることから、郵便貯金を促す玩具とみられます。お札の一枚一枚に戦費への協力となる貯蓄を訴える標語が入っており、大人にも意識させたかったのでしょうか。買い物遊びではないところに、戦時下の切なさを感じます。


〇戦時下の絵本
現在の長野県白馬村に住んでいた方からの寄贈品を中心に、日中戦争から太平洋戦争までの戦争関連絵本を展示しました。西郷隆盛の絵本は政府に歯向かった西南戦争のエピソードを無視するなど、このころの戦時関連絵本は天皇への忠義や愛国、日本をたたえるといった内容で固まっています。

・日本ヨイ國―昭和16(1941)年12月20日発行。川津書店。「日本の国がいかに優れたよい国であるかということを…編集しました」。

・主婦之友愛国絵本―昭和14(1939)年1月~5月発行。月刊誌「主婦之友」付録。主婦之友社。忠義、滅私奉公などを繰り返します。豊臣秀吉の天皇への忠義話は悶絶。


出展物紹介(下)へ続きます。

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2019年10月07日 Posted by 信州戦争資料センター at 12:05イベント報告

信州戦争資料センター第5回展示会「戦争ト玩具展」出展物紹介(上)

 信州戦争資料センターと公益財団法人八十二文化財団は、戦時下の子どもたちを取り巻いていた環境を実物資料で伝える「戦争ト玩具展」を2019年7月30日から8月16日まで、ギャラリー82(長野県長野市岡田178-13)で開きました。把握した範囲では、長野県内各地はもちろん、北海道から関東、大阪、広島まで、全国から500人以上の方にご来場いただきました。大変ありがとうございました。展示品は90点で、このうち戦時下の実物資料は86点。ご来場いただけなかった方にも雰囲気を感じていただきたいとの思いで、それぞれ写真で紹介させていただきます。

<ごあいさつ>明治維新から太平洋戦争の終わりまで、日本は戦争に明け暮れていました。身近な存在である戦争や軍隊に子どもたちが憧れや親しみを持っていた、そんな時代の軍事関連玩具を集めました。男の子たちに向けては、戦争ごっこに使う鉄かぶとや装甲車、軍艦など、多彩な玩具がありました。女の子向けにも、女性の社会的な立ち位置を教え、慰問や看護、貯蓄といった道で戦争に協力する方法を伝える玩具が。戦局の悪化につれ、子どもたちを戦争遂行に誘導するような意図が見える物も登場します。当時の社会が戦争と隣り合わせで、軍隊に身近な人が関わり、将来は徴兵される現実もあっただけに、子どもの日常に戦争があるのは当たり前だったでしょう。戦争のない時代なら娯楽の道具にすぎない玩具も、そんな環境下では戦意高揚を担い、子どもたちを戦場に導く役割を果たしたのかもしれません。玩具が娯楽の道具にとどまれる、そんな環境を保っていきたいものです。

〇帝国勲章大鑑
昭和14(1939)年1月1日、大日本雄弁会講談社発行
月刊誌「少年倶楽部」付録。実物そのままの色と大きさ。勲章は当時の「偉い人」の肖像に付きものだった。


〇戦艦三笠の模型
戦艦三笠は、日露戦争(1904-1905年)における日本海軍の主力戦艦です。ロシアのバルチック艦隊と戦った日本海海戦(1905年5月27-28日)では、日本の連合艦隊旗艦として東郷平八郎司令長官が乗り込み、指揮しました。海戦は日本軍がほぼ無傷、バルチック艦隊は壊滅という一方的な勝利。このため、日本海海戦や三笠は「強い日本」の象徴として大人気に。退役した三笠は、1926年に横須賀で記念艦として保存されました。この三笠の模型は、月刊誌「少年倶楽部」昭和7(1932)年正月号付録の復刻版(2010年・講談社)です。代表が組み立て、毎日8時間ほど作業して4日がかりで完成。当時の子どもたちの、苦労と楽しさを感じながらの工作でした。同誌には合わせて日本海海戦の話などが載っており、製作の注意では日本男子として途中で投げ出すなといった文も。当時の子どもたちにとって、三笠は憧れだったことに思いをはせつつ、ごらんください。

〇軍艦での記念写真―上郷尋常高等小学校の昭和14(1939)年度卒業記念写真帳にある軍艦での記念写真。記念艦三笠へは修学旅行生の訪問も多く、これも三笠とみられます。〇三笠艦橋の図(複製)―東城鉦太郎画。日本海海戦で砲戦が始まる直前の三笠艦橋の様子。右から4人目が東郷平八郎・連合艦隊司令長官。模型にも長官が立っていた場所の印が。


〇日本陸海軍人双六
大正13(1924)年10月15日、吉田彌七発行。個人商店の発行か。第1次世界大戦で登場した兵器をまとめてある。

上がりは華やかな出世という雰囲気で、リアリティーは少ない絵柄。


〇忠孝双六
昭和2(1927)年1月1日、大日本雄弁会講談社発行。月刊誌「幼年倶楽部」付録。主君のために身を犠牲にした人たち。上がりは、天皇に拝謁できるイメージか。印刷日が大正天皇崩御の日で改元に間に合わず、大正16年のまま発行。まだ白虎隊とか赤穂浪士とか権力に歯向かった人も取り上げており、一般的な忠義話でまとめているあたり、まだゆるさが感じられる。


〇支那事変皇軍大勝双六
昭和14(1939)年1月1日、主婦之友社発行。月刊誌「主婦之友」付録。昭和12(1937)年7月に始まった日中戦争は翌年暮れまでに主な都市を占領したものの、蒋介石が徹底抗戦を続けたために終わりが見えなかった。上がりの表現も苦労した様子だ。

上がりの絵柄では、日本人の男の子が満州国と中国の女の子を守ってやるという図柄。無意識のうちに他国の格下感を植え付ける。


〇皇軍萬歳双六
昭和15(1940)年1月1日、大日本雄弁会講談社発行。月刊誌「少女倶楽部」付録。陸軍省、海軍省の校閲が入っている。日中戦争への女性の協力方法を、慰問袋を通して教える内容。生活規範も強調している。



〇へいたいさん双六
昭和16(1941)年1月1日、小学館発行月刊誌「コクミン二年生」付録。この年の4月から尋常小学校が国民学校と改称されるのを控え、従来の「小学二年生」から改題。低学年向けとあって、少年兵のイメージ画。

実際の戦時下とあってか、大正時代の双六と比べると写実的な絵になっている。


〇事変変わり雛
日中戦争後、初めて迎えた昭和13(1938)年の桃の節句に作られたとみられる変わり雛。軽井沢町で入手。雛人形の部品を転用しています。


〇端午の節句の兵隊人形
日中戦争後、初めて迎えた昭和13(1938)年の端午の節句に作られたとみられる兵隊人形。中国戦線で活躍中の雰囲気を出しています。


〇昭和19(1944)年1月1日、中央農業会発行月刊誌「家の光」付録。日本の勢力範囲にあったアジア各地の、一部の指導者などを紹介。


〇戦時下の小学生の絵
日中戦争が始まって間もなくのころ、長野県内の小学生が描いた絵画と貼り絵です。右と中央の4点は、佐久地方の小学生が昭和12(1937)年7月から始まった日中戦争などを題材に描いたもの。日本軍機による空襲、軍艦や商船、天皇陛下を取り上げています。貼り絵は日本軍の戦艦のようです。左側の2点は、昭和13(1938)年に上田小県地方の小学生が描いた作品です。こいのぼりと空を行く日本軍機、山岳地帯を進む歩兵と戦車、航空機をクレヨンで描いてあります。いずれも、当時知られていた軍艦や飛行機などの特徴をよくとらえています。それだけ、軍隊が身近な存在だったのかもしれません。戦時中には戦争や銃後を題材にした絵画コンクールもあり、子どもたちがたくさんの作品を出品しています。


<戦争ごっこ関連展示>
戦争中の男の子の遊びといえば、戦争ごっこ。ただ、遊びの描写や記録はあまり残っていません。雑誌や紙芝居、木曽高等女学校生の作文などで雰囲気を伝えました。
・童児擬戦の図・風俗画報85号
明治28(1895)年2月10日、東陽堂発行。下段に日清戦争当時の戦争ごっこの様子を描いてあります。正月の松飾やしめ縄を振り回しているようです。


・良い子の友
昭和17(1942)年12月1日発行。コクミン一年生とコクミン二年生を統合した月刊誌。小学館。毎号、軍事絡みの遊びを紹介。


・紙芝居「ヘイタイゴッコ」
人々を戦争に協力させるための政府や団体の宣伝道具として、紙芝居が日中戦争中の昭和14(1939)年ごろから使われています。内容を正しく伝えるため、絵もせりふも印刷して作った国策紙芝居で、大人向けも子ども向けもありました。「ヘイタイゴッコ」は昭和19(1944)年5月30日、日本教育紙芝居協会が発行。次々と現われる子どもたちが各種の兵隊や看護師になって遊びます。最後に日本軍の飛行機が登場。当時、飛行兵育成のため学校でも模型飛行機作りが奨励されていました。関心を向けさせる狙いがあったかもしれません。




出展物紹介(中)へ続きます。

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2019年10月07日 Posted by 信州戦争資料センター at 12:04イベント報告

「戦争ト玩具展」始まりました!


 信州戦争資料センターと公益財団法人八十二文化財団は、戦時下の実物資料を中心とした「戦争ト玩具展」を7月30日から始めました。会期は2019年7月30日―8月16日まで、平日午前9時半―午後6時、土日曜午前10時―午後5時。 開催場所はギャラリー82(長野県長野市岡田178-13)です。長野駅から徒歩でも遠くありません。入場無料。

 展示品は90点で、このうち戦時下の実物資料は86点。大正7年から昭和19年までの各種すごろく、日中戦争にあやかって作った軍事関連の変わりびな、日中戦争初期から太平洋戦争までの間に作られた装甲車や戦車、各種ゲーム、講談社の軍事関連絵本などをそろえました。当時の子どもたちの意識を伝える狙いで、長野県内の児童が日中戦争初期に書いた絵画もあります。戦争ごっこやおもちゃを題材にした国策紙芝居も展示しました。


 大型の玩具はなかなか残っていないので、少年倶楽部付録の戦艦三笠の復刻版を組み立てました。


 体験コーナーも用意しました。日中戦争後に発売された「平和日の丸プロペラ回し」の実物を用意しましたので、ぜひ挑戦してください。また、ノベルティグッズの軍帽(複製)もありますので、かぶって記念撮影をお楽しみください。


 今回の展示では、解説を抑えめにして、来られる方に自由に感じてもらえればと思っています。ただ、いろんなメッセージくみ取ることもできますので、戦時下の玩具を実際に並べてみて感じたことを書いておきます。

 3つある大型の展示台のうち、一つは日中戦争初期までの玩具、もう一つは日中戦争中盤から太平洋戦争にかけてのころの玩具をまとめてあります。見比べますと、材質、色彩、内容の広がり、いずれも変化を感じられます。
 こちら、日中戦争初期まで。


 こちら、太平洋戦争当時が中心。


 特に色彩と太平洋戦争当時の押し付け感からは、戦争という環境が子どもたちの世界を圧迫していくさまを見ることができるでしょう。また、すごろくも同じ軍事ネタでありながら、戦争のない時期のものと戦時下のものでは雰囲気が変わります。もちろん、わずかなコレクションですべてを語れるわけではありませんが、そのわずかなものでも整理して並べると何かが見えてくるということ、大きいと思います。玩具が戦争を生むのではない、玩具が戦争に巻き込まれていくと。

 この時期、各地でさまざまな戦争関連の催しがあるかと思いますが、玩具に絞ってここまでの本物を集めた展示は、まずみられないでしょう。足を運んでよかった、と感じていただけることと思います。週末は代表が会場にいる予定ですので、気軽にお声をおかけください。

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2019年07月30日 Posted by 信州戦争資料センター at 12:56イベント報告

第4回展示会、述べ671人のご来場に感謝! 初めてツイッターによる広がりも実感でき感謝!感謝!

 2018年8月1日―19日の日程で長野市のギャラリー82で開いた第4回展示会「戦時下の信州教育展」は、延べ671人の方においでいただきました。これまでの展示会で最高の人数となり、お越しいただいた皆様に感謝申し上げます。

 会場の感想ノートに45人の方が記入してくださいました。率直な応援のお言葉、今後の励みとなります。センターといっても、収集は代表が個人で実施。パネルや解説文作りなども代表1人が基本。事務局長や家族の応援を得つつの準備で自分たちの意思が原動力ですので、ご来場いただいた方の言葉が大きなモチベーションになります。

 今回、「ツイッターを見て来ました」と書かれた県内外の方が複数おられました。これは初めてのことです。代表がツイッターを意識してぼちぼち発信を始めたのが昨年暮れからで、フォローしていただく方も増えました。ツイートに反応いただいている皆さまに感謝し、今後も良質な情報提供を続けていきたいと思います。

 新聞を見てこられた方、テレビで放映された翌日に多くのご来場があったことなど、マスコミ各社の主催の意思にそむかぬご協力もありがたかったです。そして地道に出している案内状を持参し、今年も来ていただいた方がおられました。職場の仲間、事務局長や妻の知人も来てくれて、本当にうれしいです。やってよかったと思えました。

 ご感想の中では、戦前の教育と軍事の関連について「聞いたことはありましたが、模擬戦までやっていたとは」「教育の統制の恐ろしさをあらためて感じました」「わたしと同じ位の年から戦争の訓練をしたり働いたりしている人たちがいた現実を見て、とても今幸せと感じた」「教育の中に戦争が入り込んでいく様子がリアルに伝わってきた」と、いずれもその異常さを実感していただけたようでした。現代と重ねて考えられる方もおられました。

 ニューラルネットワークによるAIの自動色付けをベースとしたカラー写真。「生き生きとした画像ができていて驚かされました」「カラーだと、よりインパクトがあり、若い方にも印象に残りやすい」「教育の中いつの間にかに戦争が入り込んでいく様子が、カラー写真でより一層読み取れますね」と、理解の助けになったようです。「フォトスキャンは面白かった」「個人の思い出フォトにも使えて良い」と実際に体験していただけて広がりが期待できそうです。 ほかにもさまざまなご提案や激励の言葉を多数いただき、やる気が出てきました。

 また、戦時資料を提供したいという方が何人も申し出ていただけたのも、今回の特徴だったと思います。2015年から展示会を重ね、ようやく信頼性が高まってきてくれたかとうれしい思いです。な、宅老所の皆様が訪れてくださるなど、高齢の皆様には「若いころのことを思い出した」「こんな時もあったっけ」と振り返るきっかけになっていただいたようで、よかったです。

 最後に、カラー写真化の技術公開に関して、早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。加工方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご教授をいただきました。ありがとうございました。また実際の加工にあたった妻と子にも深く感謝。関連展示で協力をいただいた長野相生座ロキシーと監督や応援の皆さま、そしてぎりぎりまで仕事を引き延ばしたにも関わらず驚異的な動きで展示を間に合わせていただいたギャラリー82の皆さま、あらためて感謝申し上げます。

 来年も、また多くの方に出会い、消えかかっている戦争の歴史を伝えることを楽しみにしております。また、ご相談もありましたが、出張展示にもできる限り応じていきたいと思っています。今後とも信州戦争資料センターをよろしくお願いいたします。

2018年8月20日 記

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2018年08月20日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:18イベント報告

19日までの「戦時下の信州教育展」は長野県内各地の中等学校や高等女学校、計11校の写真を展示しています

 長野市のギャラリー82で19日まで開催中の第4回展示会「戦時下の信州教育展」のメーン展示、戦時下の学校の写真。ニューラルネットワークによる自動色付けと補正作業によってカラー化させた14枚を中心に、32点の写真を展示しています。大部分は初の一般公開で、カラー化の試みも長野県関連写真で初めてです。写真は伊那高等女学校の耐寒武道鍛練です。

 選んだ学校も多岐に渡ります。長野県は広く山脈が区切っていることから、長野市を中心とした北信、上田佐久地方を中心とした東信、松本市を中心とした中信、諏訪・伊那・飯田をまとめた南信と、大きく4地区に区分されます。今回は名前のわかっている学校10校の地域別でみると、以下のようにうまく散らばっています。

 北信―長野商業学校(現・長野商業高校)、長野工業学校(現・長野工業高校)、長野高等女学校(現・長野西高校)
 東信―小県蚕業学校(現・上田東高校)、蓼科農学校(現・蓼科高校)
 中信―南安曇農学校(現・南安曇農業高校)、東筑摩農学校(現・塩尻志学館高校)、木曽中学(現・木曽青峰高校)
 南信―伊那中学(現・伊那北高校)、伊那高等女学校(現・伊那弥生ケ丘高校)

 また、展示品もさまざまな学校の関連品があります。
 ・須坂高等女学校(現・須坂東高校)生徒が使った防空頭巾
 ・飯山中学(現・飯山高校)の勤労報国隊腕章
 ・諏訪中学(現・諏訪清陵高校)で使った銃剣術の木銃
 ・岡谷工業学校(現・岡谷工業高校)校長の大きな書名が入った寄せ書き
 ・伊那中学生が勤労動員に合わせて教科書を封印した気持ちを書いた教科書
 ・伊那中学生の戦時教育令を喜ぶはがき
 ・伊那中学報国団で買った陸軍幼年学校の入試問題集

 そして国民学校関連で、現・茅野市の永明尋常高等小学校の昭和11年修学旅行ガイドと、下諏訪町東国民学校の昭和17年就学旅行の感想文、学校不明の海軍兵学校進学の決意を表明する国民学校5年生のはがきを置いてあります。

 展示品は、ぎりぎりまで集めました。東筑摩農学校の卒業記念アルバムを入手したのは7月に入ってから。最初は年代がわからず困っていたのですが、ある写真の日めくりカレンダーで「2598年 2月11日」を確認し、昭和12年度のものと判明しました。ちなみに、年代別でいきますと、以下のようになります。

 昭和 7年度―木曽中学
 昭和 8年度―長野商業学校
 昭和10年ころ―校名不詳女学校
 昭和11年度―長野工業学校
 昭和12年度―東筑摩農学校
 昭和13年度―長野高等女学校、伊那中学、伊那高等女学校
 昭和16年ころ―蓼科農学校
 昭和17年度―小県蚕業学校、南安曇農学校

 満州事変当時から日中戦争、太平洋戦争と、年代を順に追っていくことが可能になっています。地域、時期ともうまく散らばり、変化を見て取れると思います。ちなみに、小県蚕業学校に在籍していた方から伺ったところ、昭和17年のアルバムがたぶん最後で、それからは作る余裕がなかったとおっしゃっておられました。ただ、昭和17年度までは、教練の強化や勤労奉仕の導入など、どんどん忙しくはなりましたが、まだ学生が学生として生活できた時代でした。昭和18年度以降は急激に学校の軍隊化が進み、昭和20年4月には完全に学業停止、学生も奉仕から動員になっていったのです。

 そんな貴重な昭和17年度の小県蚕業学校のアルバムは、生徒のアルバム委員による撮影。おかげで鬱される側も自然な雰囲気で、戦時下でもまだ活き活きした学生の姿を追いかけられる、貴重な写真となりました。

 写真は、体力章検定の幅跳び。地面に這うようにして撮影しています。

 最後に、こちらの写真はぎりぎりで入手し、展示に間に合わせた東筑摩農学校の生徒たちです。撮影日時は昭和13年2月11日。

 会場でよく見ていただきたのが、黒板の寄せ書き。「彼女元気で」といった若者のしゃれっけのある書き込みに重なるように「堅忍持久 挙国一致」といった軍国のスローガンも並んでいます。この生徒たちは、おそらくこの軍国の掛け声に押されて、それぞれの持ち場に散っていったのでしょう。くったくない笑顔のまま、元気で生き抜いていてくれと思わずにはいられません。

2018年8月14日 記

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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。

※他の自動色付け写真はこちらの一覧からごらんください。  

2018年08月14日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:57イベント報告

展示会を支えてくれた家族の話―案内状作りからモノクロのカラー化まで、皆の力のおかげ「ありがとう」

 長野市のギャラリー82で19日までの日程で開催中の第4回展示会「戦時下の信州教育展」。企画の相談から支えてくれる事務局長はもちろん、ギャラリー82や相生座の皆さんなど、たくさんの人に支えてもらって今年も実現できました。そして毎回少しづつ世話になっている家族に、今年は全面的に支えてもらいました。

 こちらは、会期が始まってから、過去に来場してくれた方々へ出した案内状です。

 正直、準備から開催まででへとへと。その後は準備のため代休を使ってあったのでフルで仕事。せっかく来ていただいてくださっている人たちに、なんとか案内を出したい、と思っても体が気力が。

 そんな弱音を吐いていたら、「手伝ってやるから!」と妻と子が叱咤してくれました。それで手元にあった資材を使い、何とか完成させました。発送も翌日、妻がやってくれました。封筒の大きさが違うのは、とにかく手元のもので、と一気に作ったからです。

 今回は高校への発送作業でも一人でやっているところを手伝ってもらいました。また、色付け写真は3人の共同作業で今回の目玉になりました。

 ここまで家族に支えられたのは今までで一番だった。ありがたい。

 同時に、普段からの理解を得ておくことが今更に大切だと思いました。

 ここであらためて「ありがとう」。

 「案内来たから尋ねさせてもらった」という方もおり、涙の出る思いです。

 19日まで、会期もちょうど半ば。これからもっともっとたくさんの人に来てもらいたい。

 週末、ぜひ遠方からもお越しください。代表が迎えさせていただきます。

2018年8月9日 記

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2018年08月09日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:29イベント報告

第4回展示会・会場で―貴重な資料のご寄附、戦時記録の解釈、国民学校の戦技訓練のお話…やって良かった

 第4回展示会、5日目にして代表もやっと会場でご案内ができました。きょうは30人余り。既に100人くらいの方に来ていただいているご様子。八十二文化財団さんの御案内、各マスコミさまに感謝です。そしてわたしが家族の協力で出した案内状で着ていただいた皆様のお姿、本当に涙の出る思いです。

 本日、一番の出来事は、中野市からこられた男性(85)が、2点の戦時資料をご寄贈してくださったこと。

 一つは中野町役場が昭和16年10月13日、各隣組で回覧して備品とするようにとした回覧号外付きの「週報・家庭防空の手引」。この時期の市町村の対応を伝える貴重な資料です。もう一つは、お父様が使っていた紙巻きたばこ作り機。志賀高原に生えている「コバ」の葉を集め、代用タバコにして吸っていたとか。

 また、水戸の艦砲射撃の音が「ズウーン」と聞こえたという話も。後日、現地に行かれることがあり「そりゃひどかった」と聞いて納得されたとのことです。

 そしてこの男性の体験も面白い。昭和20年に国民学校6年生ということでしたが、そのころ授業で「戦技訓練」をやったと。長さ1メートルほどの棍棒を各自が用意。教室の後ろに並べてあり、戦技訓練では横にした杉丸太に縄を巻いたものを全力で棍棒でたたくというものだったと。「最初、握りよいものを用意したら細すぎると怒られ、やっと両手で握れるナラの丸太を使った。これで米兵をぶっ叩くんだと」「授業で認めてもらわないと卒業できないから、全力で大声を出したたたいた」―。子供に米兵を棒で殴れと教えた教員。何を考えてのことだったのでしょう。

 別の終戦直後生まれの男性からは、会場に展示してある防空ずきんをご覧になられ、「冬は、防寒のためこれをかぶって学校へ行った。後ろの尖ったところを引っ張るいたずらがはやりました」と。

 戦争のことで聞きたいことがあるとの問い合わせがあり、会場に来てもらった女性。お父様の軍隊経歴を取り寄せて聖書したが、腑に落ちない部分があるとのこと。わかる範囲で当時の軍の編成や松本の連隊の動きなど、説明してご納得いただきました。少しの知識ですが、役立って良かったです。

 ほかにも資料がうちにもあると連絡いただいており、ありがたいことです。責任を持ち収集し、意義付けをして、後世に伝えるのがわたしの役割だと、あらためて感じた次第です。

 カラー化写真は、感じ入ってくださる方が多いです。中には、奉安殿や分列行進を最近とってきた写真と勘違いされる方もおり、その効果は絶大のようです。

 展示は19日までです。代表は少なくとも11日と19日(午後3時まで)は一日中、12日も体調の許す限り、会場にいる予定です。遠方から来られる方、団体で来られる方など、12、14、15は対応可能ですので、ツイッターやブログの「オーナーへ連絡」からご連絡ください。

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2018年08月05日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:43イベント報告

第4回展示会「戦時下の信州教育展」展示品紹介その3ー各種実物資料、カラー化体験コーナー

 信州戦争資料センターと八十二文化財団共催の展示会「戦時下の信州教育展」は、2018年8月1日から長野県長野市のギャラリー82で19日まで開催中です。平日午前9時半―午後6時、土日曜午前10時―午後5時(最終日は午後3時)。入場無料です。開催場所はギャラリー82。長野駅や長野バスターミナルから徒歩圏内です。今回、写真34点、戦時資料34点を展示しています。いずれも信州戦争資料センターが収蔵しています。

 こちらは「修身掛図」。もともとは18枚の図面をまとめてとじてあったのですが劣化が激しく、1枚ずつにわけて裏打ちしました。掛図というとなじみが薄いかもしれませんが、まあ、授業の理解を助けるためのスライドのようなものと。対照する教科書が手に入りませんでしたので、雰囲気だけお感じください。神による国つくりや伊勢神宮、体を鍛える男女の図です。

 こちらは、教育勅語(おそらく複製)と教育勅語の解説書、国史などの教科書、体力章検定で使った規格手榴弾などを並べてあります。現場ではアクリルケースで覆ってありますが、ここではわかりやすいようにケースをかぶせる前の写真です。

 そして、もう一つ大事な資料、「2・4事件」を報じる新聞などを解説文とともに置いておきました。長野県の教育は、教員赤化事件ともいわれたこの2・4事件を機に国粋の方向に大きく舵を切ります。そんな教育全体を取り巻く雰囲気をおつかみください。

 こちらは、修学旅行の変化です。同じ諏訪郡内の小学校で比較。昭和11年は5泊5日の関西の旅、昭和17年は3泊2日の伊勢や橿原神宮などの参拝旅行と変化した様子を一覧表や手書きの地図、当時の資料で紹介します。

 修学旅行については、鉄道省が昭和12年には伊勢への参拝には料金2割引きとするなど奨励していました。ところが日中戦争がいつ終わるか見通しがたたなくなっていた昭和15年、文部省が中等学校と国民学校の旅行は3日以内と通牒。輸送能力の問題と消費規制のためです。そんな歴史を感じていただければ幸いです。昭和17年の修学旅行については、論文として紹介したいと思っています。

 最後の展示台は、戦争終盤をイメージした展示です。岡谷工業学校長の大きな書名がある寄せ書き、伊那飛行場建設に動員された伊那中学の生徒が決意を裏表紙に書いた化学の教科書、海軍兵学校に進むと宣言する国民学校5年生の子供の手紙などです。

 展示台はいずれもアクリルケースで覆ってありますが、よくみることが出来ますので、ご安心ください。

 最後に、モノクロ写真カラー化についての解説と体験コーナーを用意しました。

 2015年に発行した本の販売も行っています。会場に展示した写真の一部も掲載していますので、見本を開いてみてください。



 そして、ぜひ現場においてあるノートへご感想をお書きください。励みや参考になります。また、ご住所とお名前をご記入いただいた方には、次回以降のイベント案内を送らせていただきます。

 あす8月5日は代表が会場にいますので、お気軽にお尋ねください。

 なお、展示品はすべて撮影OKです。ぜひ、ツイッターやFBなどのSNSで発信してください。あ、代表の撮影だけはご遠慮ください(笑)

2018年8月4日 記

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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。画像の加工方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。体験漫画で紹介していますので、現場でご覧ください。
  

2018年08月04日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:22イベント報告

第4回展示会「戦時下の信州教育展」展示品紹介その2―パネル(下)

 信州戦争資料センターと八十二文化財団共催の展示会「戦時下の信州教育展」は、2018年8月1日から長野県長野市のギャラリー82で19日まで開催中です。平日午前9時半―午後6時、土日曜午前10時―午後5時(最終日は午後3時)。入場無料です。開催場所のギャラリー82は長野市岡田178-13、長野駅や長野バスターミナルから徒歩圏内です。


 今回、写真34点、戦時資料34点を展示しています。順次、内容を紹介していきます。いずれも信州戦争資料センターが収蔵しているものです。写真は昭和7年4月から昭和18年3月までに長野県内で撮影されたもので、11校が登場します。

 パネル紹介後半。6枚目のパネルです。

 青年男子を対象に昭和14年から始まった体力章検定(18年度から女子も実施)。こちらは昭和17年の小県蚕業学校における体力章検定の様子です。カラー化したのは「重量運搬」で、初級40キロ、中級50キロ、上級60キロの俵を担いで50メートルを15秒以内で走ります。ほかに手榴弾投げ、走り幅跳び、懸垂の各場面をモノクロで組み合わせました。手榴弾投げで使っている規格手榴弾は、会場に展示してあります。いかにも軍隊のための訓練と感じます。

 7枚目は、戦時下に登場した「滑空機」と「国防競技」です。

 昭和16年から国民学校では模型飛行機作りが正課になりました。長野県は昭和17年、県内全男子中等学校で滑空団を編成、滑空訓練を実施する方針を決めます。3学年(16歳以上)以上の教練の時間に訓練を行うことを目標とし、同年末から翌年にかけて、各中等学校に布張りの滑空機が次々と納入されています。カラー化した写真は昭和17年12月に南安曇農学校で組み立て中の滑空機で「南農号」と命名しています。

 太平洋戦争開戦後に滑空士試験制度が始まり、昭和17年10月には諏訪中等学校(現・諏訪青陵高校)の滑空部5年生3人が、初めて三級滑空士になったと新聞で報じられました。大阪の中等学校生の3級滑空士免許を一緒に展示してあります。

 国防競技は、昭和14年の第10回明治神宮国民大会に向けて、初めて設けられました。行軍競争、障碍(しょうがい)通過競争、手榴弾投擲突撃競争、土嚢運搬継走、けん引競争―の5種目。いずれも軍装、帯剣が基本で行軍、障碍通過、手榴弾投擲突撃の3種目は銃も背負って競技をするとなっていました。カラー化写真は、蓼科農学校卒業生のアルバムからで、障碍通過競争の一場面です。

 8枚目は、勤労奉仕です。

 山で下草刈りをして肥料にでもするのか、運び下す南安曇農学校の生徒たちをカラー化。AIは自然系の色付けにめっぽう強さを発揮します。下段は伊那高等女学校の「軍服修理」と奉安殿を整備する砂利の三峰川からの運搬です。

 戦時下の勤労奉仕は長野県の場合、昭和13年5月に中等学校、国民学校を総動員する大綱を決定。14年4月には長野県の取り組みなどを参考に、文部省が勤労作業を義務制とする通牒を出します。16年には学徒挺進隊動員実施要綱により、奉仕活動が正科に準じると位置付けられました。同年11月、国家総動員法による国民勤労報国協力令公布。各学校に協力令に基づく勤労報国隊ができます。法律では中等学校の3年以上から成人を対象としましたが、長野県は独自に1年から対象と決めました。戦時下の勤労奉仕は自発的なボランティアではなく、義務でした。「奉仕」という言葉の印象とは違います。やがて名称は勤労動員に変わり、学業も停止します。

 9枚目は、戦争とかかわる学生たちの姿を集めました。

 長野商業学校の満州事変に合わせた慰問袋集めをカラーにしています。印刷写真あらのカラー化ですが、そこそこ、いい感じになったと思います。後は昭和13年の武漢三鎮陥落を祝うパレードに参加した伊那中学と長野高等女学校の姿です。そしてもう1枚、昭和13年の東筑摩農学校の生徒の記念写真を入れてあります。その意味は会場で。

 10枚目、最後は小県蚕業学校の昭和17年の防空演習です。

 濡れむしろを焼夷弾にかぶせて消火する訓練をカラーにしてあります。濡れむしろを持つ基本姿勢とは―会場の説明をご覧ください。

 防空演習の写真に合わせて、須坂高等女学校の生徒が使っていた防空ずきんを展示しました。末期の中等学校制服と一緒にご覧ください。

こうした学生一人一人や訓練を、より実感していただければありがたいです。

 ただ、この時期までは、まだ軍事色が強くなっているとはいえ、学業が中心の学校生活でした。昭和18年度以降、生徒たちはどんどん学問から引き離されていき、ただの労力となっていきます。逆説的ですが、今回の展示は学業をぎりぎりまで軍事と両立させた戦時下の教育ということになります。この先は、ただの動員になるのですから。

 他の展示品等は、あすに。

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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。加工方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
  

2018年08月03日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:10イベント報告