それぞれの10月16日―同じ日付の収蔵品を並べ、大正5年から昭和21年までの戦争を挟んだ世の流れを実感

 2018年9月中旬から、毎日「〇年前の今日」の出だしで、その日付のある収蔵品をツイッターで紹介しています。歴史は年単位で考えがちですが、やはり日々の営みがあり、その積み重ねによって形成していることを実感しています。

 資料を探すのに苦労する日もあれば、いくつもあってどれを選ぶかと考える日もあります。きょう、2018年10月16日は、まさにそのいろいろあるが、これまでで一番多く、しかも多彩であったので、ブログでまとめて紹介します。あまりにも駆け足の歴史ですが、その日に世の中がどうだったかを考えるとともに、その世の中でたくさんの人が行動し、そして苦労していた戦時下に思いをいたしてもらえたらと思います。

 102年前の今日、大正5(1916)年10月16日。帝国在郷軍人会玉川村分会長は、忠魂碑建設の寄付5円を受け取り、賞状型の受領証を吉川さんに渡しました。(玉川村は現・長野県茅野市)

 日清日露の戦役を受けてのものでしょうか。束の間の平和の時代ではありましたが、こうして身近な場所に軍事がありました。そして大正時代もこの後は第一次世界大戦、シベリア出兵と戦争続きになり、満州事変、日中戦争へと突き進んでいきます。

 81年前の今日、昭和12年10月16日。午後6時から伊那町(現・長野県伊那市)の坂下公会堂では時局大講演会を開きました。「銃後について」と題して町長が演壇に立ち、続いて新愛知新聞社(現・中日新聞)の理事が中国の蒋介石とソ連極東司令官の関係について話しました。

 同年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中両軍の衝突は、とうとう本格的な戦闘に発展していたころです。講演会の主催は伊那町銃後会ですが、新愛知新聞専売所の2新聞店が大きく名前を出しており、講師の選定から言っても、販売拡張の一環であったと推測できます。

 79年前の今日、昭和14年10月16日。中国戦線にあった沼田部隊では、戦死した長野県和村(現・東御市)出身の兵士の遺族にあてて、戦死を伝えお見舞いを伝える手紙を用意しました。

 印刷文に戦死者の名前、日付、遺族の名前だけを手書きしたもの。それだけで戦死者の数の多さ、戦場の多忙さを考えさせられます。





 78年前の今日、昭和15年10月16日。日本勧業銀行国民貯蓄勧奨部は「支那事変貯蓄債券グラフ」を発行します。

 戦費は昭和15年度予算までで165億円かかっているとし、貯蓄債券の収益が戦時国債の消化に回されること、インフレを防ぐことを説明。漫画には木炭バスも出ており、通常の経済が回らないことを連想できます。



 裏表紙には、道府県別の貯蓄債券一人当たり消化量を掲載、奮起を促しています。東京、大阪、京都、兵庫の順で、長野は真ん中のあたりです。

 なお、この債券は発売当初に比べ、このころになると小型化していました。長期の戦争で債券の発行枚数も莫大になり、資材を節約する必要があったのでしょう。写真は昭和12年のものと昭和16年のものです。昭和18年8月からは、直接国債を買ったことになる「国債貯金」の制度も始め、一層資材節約に役立てています。



 77年前の今日、昭和16年10月16日。まだ太平洋戦争は始まってっていませんが、大阪毎日新聞は学生動員態勢のための卒業期限繰り上げや、銅の使用制限品目に80品目を追加することを伝えています。この年、11月には国家総動員法に基づく金属類回収令による金属回収が始まります。既に日中戦争で疲弊してきた日本の姿が伝えられています。





 75年前の今日、昭和18年10月16日。朝日新聞は兵役延長や強制疎開の準備、南太平洋の最前線ラバウルへの空襲といった話題を取り上げています。ラバウル空襲では「反攻企図軽視できず」と戦局の厳しさをにおわせています。ただ、戦果が誇大で被害が過小のため、どこまで伝わるかは疑問です。





 73年前の今日、昭和20年10月16日の信濃毎日新聞。一面下に「徴兵保険の転換について契約者各位に謹告」と題した広告があります。戦前は男子が徴兵された時に保険金が支払われ、残された家族の生計や出征の準備にあてるという「徴兵保険」が人気でした。戦争が終わって、当面は徴兵がないことから「関係者協議の結果、新事態に対処し、之を生存保険に転換することと」したと説明。大蔵省のほか、各生命保険会社が並んでいます。生命保険会社は、いずれも〇〇徴兵保険会社という名称を既に転換していました。




 この日の紙面では「好意まで無にさせるな 進駐兵に対する学童のしつけ方」と題した記事も。

 米兵から物をもらってはいけないと厳しく指導したため、兵隊が押し付けるようにして与えたチョコレートを目の前で捨てて気分を悪くさせ殴られたことや、きちんと「土足で入らないで」といったところ、すぐに靴から靴下まで脱いで入ってきたなどと書かれており、日米の軍人かたぎの違いもあると紹介しています。

 こんなとまどいの中、戦後の復興に取り組んでいったのでしょう。

2018年10月16日 記

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2018年10月16日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:21収蔵品

戦前の幻想 「伝書鳩でもたらされたアッツ島山崎部隊最後の様子」の作り話広がる―戦争も注目を集めるため活用

 昭和18年5月30日に発表された、アッツ島守備の山崎部隊玉砕の報。大本営が初めて「玉砕」という言葉をつかい、その後マキン、タラワでも使用し「全員壮烈な戦死=玉砕」としみこませた、その最初の悲報です。5月31日付朝日新聞は、一面横ぶち抜きで掲載。

 さらに朝日新聞社は全戦死者の顔写真を掲載した「軍神山崎部隊」なる本を出しており、長野県からも将校3人、下士官兵20人の戦死を数えています。

 「一兵も増援求めず」とありますが、実際は増援を送ることも撤収させることも無理で「見殺し」にされたのが実態でした。

 とはいえ、戦時中はアッツ島のかたきを打て、と戦意高揚で国民は燃え上がった、というか、戦意高揚の材料になっていました。そんな中、昭和18年6月26日の信濃毎日新聞には「造言に惑う勿れ(なかれ) 噴飯の“アッツ島から伝書鳩”」の見出しで、7人が逮捕されたとの記事が載ります。著作権切れであり、全文転載します。(漢字、かなは現代のものに適宜直し、実名の報道をずべて仮名にしました)

 【東京】アッツ島皇軍勇士の玉砕に一億国民は感奮し勇士の心を心として生産増強に米英撃滅のたくましき進軍を進めている折、最近「伝書鳩によってもたらされたアッツ島山崎部隊最後の状況」など虚構の手紙を作りこれを盛んに流布しているものがあり、当局で内探の結果、このほど日本橋区(略)会社東京支店事務員A(21)ほか6名を深川平野署で検挙した。

 手紙はAの想像をたくましうしてでっちあげた噴飯もので、軍旗を捧持しない山崎部隊が軍旗を焼却する状況や当時現地は雨が降っていなかったのに小ぬか雨が降っていたなど全くでたらめを述べている。Aから出た手紙は口頭やあるいは複写されて著名の士のもとへも送られ銃後国民生活を惑わせており、陸軍省報道部、警視庁、憲兵隊ではかくのごとき造言蜚語に惑わされることのないよう、次の通り注意を与えている。

 最近京浜地方に「アッツ」島から伝書鳩にもたらされたという〇〇少尉の手記なるものが流布せられているが、右は全くの虚構欺瞞のものである。文は冒頭に山崎部隊長が突撃前に軍旗を焼却し奉る情景を述べ、中ほどで東京駅の出発を回想し、最後に小ぬか雨が降る中で伝書鳩を飛ばすところで終わっているが、山崎部隊は軍旗を拝受しておらないし同部隊は東京から出発していない。また現地ではその当時雨は降っておらなかった。ことに最大限400キロの飛翔距離しかない伝書鳩であることを考えるとき、これを信ずるものの常識のなさが誠に噴飯ものである。
 この造言はAが山崎部隊玉砕の発表されるや、突撃寸前の情景を想像し、あたかも山崎部隊の将校の通信文なるごとく作成し、これを6月4日、勤め先のB(20)に提示したところ、Bはこれを複写し、翌日勤務先にて同僚のC(34)、D(35)、E(25)、F(19)、G(34)など回覧。Cなどは更に複写の上、家族友人などに流布し次第に広がるようになったものである。7人は造言蜚語の件で警視庁において逮捕、取り調べを受けている。

 以上で記事は終わっています。戦争の報道を、自己顕示のために利用しようとしたのでしょうか。戦時下に玉砕報道に合わせて作り話をつくって流布するなんて、この時代にもそんな人がいたんだなーと感じるだけですが、それを全力で阻止しようとした側の意気込みが、やはりこの時代を感じさせてくれます。

2018年10月4日 記

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2018年10月04日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:07資料