昭和12年の日本周辺の情勢を伝える「最近の東亜形勢図解」は、北の脅威を唱える陸軍の世論操作か

 2015年に初めて開いた展示会「信州と戦争の時代展」では、戦争の時代を知らない人たちが自然にその時代に踏み込めるようにと、会場入り口にこの地図を掲げました。

 大阪毎日新聞社編さん最近の東亜形勢図解(昭和12年1月1日発行)

 実物はかなり大きく、写真は部分の撮影です。当時の日本は朝鮮を併合、満州国を建国し、国際的に孤立を深めつつあった時期。それでは、どんな脅威に備えようとしたのか。この地図が、その一端を示しています。この年の7月から中国との戦争が始まるのですが、強調されているのは満州国周辺のソ連軍です。

 陸軍はソ連を仮想敵国とし、ずっとそれに備えてきたのです。中国はそんなに重視していなかった、ということが兵士の配置からも理解できます。

 実は、似通ったデザインの地図を、同じときに各新聞社が発行しています。陸軍がソ連の脅威を国民に伝える狙いで共通の資料を各新聞社に提供し、それぞれが同様の地図を発行したとみられます。日本を守るため朝鮮を併合し、それでは不足で傀儡国家の満州国をつくったものの、新たに満州国国境のソ連に備える必要が出てきてそこに力を注ぐ…。いくら勢力を広げても新たな不安が生まれ、それに対処していく日本の姿が垣間見えるかと。

 それにしても、クマの絵が何となくのどかさを感じさせます。全体に、そんなカットがあり、正月の付録の雰囲気もあります。ただ、陸軍が資料をマスコミに渡して、そろって出すように促したとみられること。それに足並みをそろえて競争のように地図を発行した新聞社。陸軍の世論操作に本来は独立しているべき新聞社が付き合ったとみられることは、大変問題を感じるところです。当時の政治とマスコミの力関係やマスコミ間の競争の中、その現状を利用した陸軍が国民にまんまと北の脅威を浸透させることに成功した実例かもしれません。

 そうした貴重な資料でもありますので、これも裏打ちをして、デジタルの記録もし、保存に耐えうる形にしました。

 そうした北の脅威しか考えていない中で、中国との戦争が何となく始まり、国を挙げて突入していく。その結果、人々の生活がどうなったか。思いをいたしてほしいと思います。

2018年5月15日 修正して投稿

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2015年04月24日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:53収蔵品

あんぱん食べ比べ ブーランジュリー横浜




ブーランジュリー横浜南長野店(長野市稲里町)の「横浜あんぱん」





値段 150円(税別)、162円(税込)
外観 白ごまのせ
重さ 150グラム

やや生地とあんの間に隙間があるが、あんこがごろんという感じで入っている。

生地はややバター風味があるが、あんの量が多いため、特に気にならない。

あんをしっかり食った、という感じになる。


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2015年04月24日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:56あんぱん

あんぱん食べ比べ 原信篠ノ井東店




原信・篠ノ井東店(長野市篠ノ井杵淵)の「極あんぱん」





値段 120円(税別)、130円(税込)
外観 ケシの実
重さ 90グラム

大きいですが、空洞が多い。生地の甘味があり、生地の主張強め。

圧縮して食べるとあんの主張は弱く、生地勝ち。あんの量が少なめなのかも。

あんは砂糖風味がやや強めか。


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2015年04月21日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:37あんぱん

所蔵資料年代順一覧

信州戦争資料センター所蔵資料年代順一覧



信州戦争資料センターで所蔵している品々の一覧をA4版の冊子にまとめました。2015年4月11日に最初に作成した一覧は、1980件、3061点の所蔵品を102ページにまとめました。その後、順次収蔵資料を追加し、2017年9月には4000点を越えました。年代順に整理してありますので、時代の流れと世相が感じられます。研究用などにいかがでしょうか。最新の信州戦争資料センターデータベースから印刷用の書式を作り、両面コピーにしたものを大型のホチキスでとじ、テープや接着剤で背を補強した手作り品です。

掲載項目は、各資料ごとに、製作年、製作月、製作日(場合によっては関連の日付)、資料名、製作者、関連地名、説明、数量を明記し、ほかに資料の性質ごとに分けた「分類」、主に形状で区別する「区分」、資料の関連主体「所属」、資料IDといった独自の分類基準を記載しています。資料の見開きで一覧できるようにしてあります。回覧板や新聞の説明は、主な項目、記事を箇条書きにしてあります。

見開きの左ページ



見開きの右ページ



ご興味を持たれた方には、実費2000円でお譲りいたします。ただ、受注生産品です。資料は日々収集を重ねているほか、校正や内容の点検、更新を随時行っているため、その時点での最新情報をお届けしたいと考えるからです。このため、注文をいただいても、お手元に届けるまでに1週間程度の日数をいただきますこと、ご了承ください。

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実費 1冊2000円
送料 レターパックライト360円(1-3冊。それ以上は別途計算)
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<注文方法>
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 破損、落丁などの瑕疵がある場合、当方着払いで現物を返送していただき、お取替えいたします。送料は当方で負担いたします。
 不足がある場合、追加を送ります。送料は当方で負担いたします。

※商品に問題がない場合で、到着後の返品は受け付けません。
 これは、当一覧が受注生産であり、返品をいただいても他者へお譲りすることができないためです。なにとぞご理解ください。

※注文時にお送りいただいた情報は一度の取引での使用に限り、取引後、廃棄させていただきます。

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2015年04月20日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:52資料

新聞社と軍隊のかかわり

「大信州進軍譜 松本部隊行進曲」の楽譜と歌詞です。



松本部隊というのは、松本市にあった大日本帝国陸軍歩兵第50連隊のことを指しているものです。東部第50部隊松本連隊区司令部と、帝国在郷軍人会松本支部の選定歌です。作曲は陸軍軍楽隊ですが、歌詞は「南信日日新聞社」が募集して決定したものです。

新聞社といえば、戦争中、弾圧されて書きたいことも書けず、というイメージがありますが、軍隊が日常に併存している中では、そこと縁のある住民も多いことですから、後押しする企画も営業上、人々の要求上、ふつうに行ったと推測できます。

特に、いざ戦争が始まってしまうと、戦場の情報、特に肉親や郷土の歩兵部隊の動きは大きな関心時になります。そんなとき、郷土の部隊を支えるという姿勢は、やはり出てくるようです。

こちらは、信濃毎日新聞社が公募して制定した「我等が松本連隊」のPR。


満州事変に続く上海事変に出動した松本連隊を応援しようと歌詞を募集、山田耕作が作曲しました。部隊の一部が凱旋する昭和7年4月17日に間に合わせてレコードを発売しました。センターでは、こののちに別のカップリングで販売されたSP版のレコードを所蔵しています。

信濃毎日新聞が桐生悠々の有名な社説「関東防空大演習を嗤う」によって不買運動の危機に立たされたとき、実は松本連隊への記者の立ち入りが禁止されています。部隊は満州にいて、その報道は県民の一大関心事。これが載らないとなれば、不買運動がなくてもまず購読者を食い止めるのは不可能だったでしょう。桐生の退社という新聞社の敗北で決着した背景には、軍隊と縁の深い人たちが求める情報も伝えなければならない事情が大きかったのではないでしょうか。

ところで、最初に挙げた楽譜の裏は、松本市の酒類食料品問屋の宣伝広告ですが、ここで紹介しているのが「理想的液体調味料の元祖 味の種」です。その製造元は陸海軍御用達「味の種」本舗 柳原商会となっておりました。いろんな人たちがつながりあって、軍と一体になっていたのです。こうした環境下で戦争や軍部独走に冷静な判断をくだし、批判するというのは、想像以上に厳しさが求められたことでしょう。

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2015年04月10日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:51収蔵品

あんぱん食べ比べ ツルヤ



ツルヤ(長野市内)の「十勝酒種つぶあんぱん」





値段 99円(税別)、107円(税込)
外観 黒ゴマのせ

食品スーパー、ツルヤのパンコーナーで販売している。酒種がたまたまあったので購入。通常のラインナップかは不明。

あんは生地に比べ少な目。底の真ん中が上に膨らんでいるのは初見です。

酒種の香りはほんのりという感じ。皮、生地とやや固めだが、夕方購入のせいかも。ごまの風味とあんがしっくりくる瞬間があった。


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2015年04月10日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:27あんぱん

長野県では初めての防空演習は昭和7年-国民を戦争へなじませる第一歩か

 日本で防空演習が最初に行われたのは昭和3年、大阪においてでありました。長野県では昭和7年5月、長野市で行ったのが最初になります。有名な関東防空演習の前年のことです。当センターでは長野市防護委員会による防空演習計画書と、演習要図を手に入れました。こちらが演習要図です。

 主要部を拡大してみるとこんな感じです。

 長野駅から善光寺、現在の長野西高校あたりまでが演習の中心地となっています。要図には避難所や重要防護建造物、機関銃、高射砲といった対空設備の場所などが記載してあります。

 この演習は長野市長が率先して企画、5月22日に実施しました。爆弾投下実演、空襲と対空、消防や救護、灯火管制を行うといった内容でした。演習計画では毒ガス防護の演習を中心にし、かなりのページをさいて毒ガスの紹介をしています。当時、飛行機の性能がまだ十分ではなく、少数の爆弾で効果を上げるため、毒ガスの使用が見込まれていたことを示します。一方、通常の爆弾よりも、毒ガスならば多くの人に関心を持たれるだろう―という軍部の狙いがあったともされます(宣伝で、ほとんどの侵入機を叩き落とすことになっていましたしね)。

 第2次世界大戦当時、各国とも毒ガスへの備えはしていました。しかし、実際には飛行機の進歩により、大量の爆弾や焼夷弾をばらまくという空襲がなされるようになったのはご存じのとおりです。ちなみに、日本本土への初空襲は昭和13年5月20日の中国軍機によるビラ空襲で、5月22日付信濃毎日新聞は「徐州陥落の隠ぺいに九州へビラ空襲 児戯に類す狂乱策」としつつ4段見出しで大きく報じています。それなりに衝撃が大きかったのでしょう。

 長野県では昭和12年8月に長野県全域を対象とした防空演習がありました。既に、関東防空演習を信濃毎日新聞社説で批判した桐生悠々は追われており、軍の行動に疑問を呈する世論は圧殺されていました。各地で空襲に対応するための防護団を結成し、空襲の訓練を通じた戦争の組織化が進みます。町内運動会の種目にも、防空演習を題材にしたものが登場しています。日中戦争も始まっており、その後毎年のように開く防空演習は、国民に体で戦争遂行に力を尽くすことを浸透させる役割を担ったのでしよう。

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2015年04月04日 Posted by 信州戦争資料センター at 17:26収蔵品

あんぱん食べ比べ 森のパン屋こまくさ



森のパン屋こまくさ(長野市篠ノ井杵淵)の「十勝あんぱん」





値段 120円(税別)、129円(税込)
外観 黒ゴマかなり多め

大きいですが、空洞が多いため圧縮して食べることに。生地の存在感小さく、固めの皮であんをはさみ食べる感じ。

あんは一見、少なく感じますが、圧縮して食べるのでそれなりのバランスかも。

あんの風味はよいです。黒ゴマの香りをきつく感じるときがあり、少し多いかな。これも好みですが。


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2015年04月04日 Posted by 信州戦争資料センター at 16:33あんぱん

灯火管制さえ徹底すれば空襲被害は防げると信じ「炭焼き釜」も対象に加えた些末な防空計画

 日中戦争がはじまった昭和12年、「防空法」と呼ばれる法律が制定されます。空襲があったときに対応するための組織や装備、備えなどを決めたものです。これを受け、長野県でも昭和12年8月に県内全域での防空演習を行いました。その際に長野県がまとめた解説書「長野県防空演習灯火管制規定」を紹介します。

 たとえば、光を外に出さず夜に来た敵機に爆撃の目標を発見させなくする「灯火管制」について、新聞一枚の光の透過率は0・14なので、三枚重ねて窓に張ると0.14×0.14×0.14=0.00274で、決められた警戒管制程度に光を減らせる―などと解説してあります。工場の場合はどうするかなど、状況に合わせて細かく説明してあり、その中の1ページにこんな図が。


炭焼き窯です(驚)

 そして、炭焼き窯から漏れる光を遮る方法も載っています。

 こんなことまで、本気で必要と考えられていたのです。

 これより先、昭和8年に関東圏で大防空演習がありました。信濃毎日新聞主筆の桐生悠々は社説で、本土に飛行機を招き入れるのは既に負けていることで、それを前提としているのはおかしいと批判。灯火管制も、赤外線などの科学力に頼ったり、方向や速度を計算すれば問題なく目標に到着して爆撃可能で、暗くしたら自分たちが混乱するだけ―など、今から思えば極めてまっとうな考えを示しました。

 しかし、軍部は猛反発して信濃毎日新聞に在郷軍人らによって圧力をかけ、桐生は退社。そして、桐生の指摘は省みられることなく、炭焼き窯まで灯火管制するに至ったのでした。当時の新聞を見ますと、灯火管制で真っ暗になっているのを幸いに、泥棒を行うものがいたりしたようです。

 桐生の言葉の正しさは歴史が証明しています。一方、防空演習は国民の緊張感を高めたほか、組織も整備され、戦争への協力体制構築を容易にする側面もあったのではないでしょうか。だとすればなおさら、まともな提案であっても聞くわけにはいかないでしょう。今の時代も、同じような状況が続いているような気がします。

2015年4月3日の投稿を2018年2月28日、大幅に加筆

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2015年04月03日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:26収蔵品