昭和7年当時の木曽谷の風景―出征兵士の汽車、招魂祭、馬市もカラーで #ニューラルネットワークによる自動色付け


 一連の木曽中等学校の写真は、昭和7年度の卒業アルバムから選んでいます。昭和6年9月18日に満州事変が始まっており、昭和7年3月には、長野県松本市の歩兵第50連隊も満州国建国の関連で発生した上海事変のため、出征することになります。この時、出征兵士を乗せた列車は、各地で大歓迎を受けました。こちらがアルバムに載っていた木曽での見送りの写真です。
 ニューラルネットワークによる自動色付けを利用しています。集まった人たちの活気が一層感じられます。こちらが元写真です。

 当時の長野県福島町(現・木曽町)の全景です。南から北に向かって撮影しています。左手に国鉄の中央線、並行して旧中山道、木曽川と続きます。昭和2年5月12日に800戸を全焼する大火があり、写真右側はまだ復興途上です。江戸時代の宿場の情緒が残る石置き板ぶき屋根の家屋も見えます。

 こちらが元写真です。色付けすると建物が浮かんでみえていることが分かります。

 木曽は当時、有名な馬産地でした。胴長短足だが粗食に耐え力も強い「木曽馬」は人気で、定期的に馬市があり、活気を見せました。こちらは青木河原の馬市場で、小屋の中に馬が集まり、商談をしました。

 こちらが元写真です。

 水無神社の例祭。今も山車が出て、夜には大きなみこしを転がす「みこしまくり」が繰り広げられます。

 こちらが元写真です。

 最後に、招魂祭の写真です。木曽中の生徒だけではなく、在郷軍人会らしき人たちなどが集まっています。普段の生活のなかに、こうした軍事が組み込まれていたのがこの時代だったのでしょう。そして、あらゆるものが軍事に奉仕することになっていくのです。

 こちらが元写真。過去から学ぶことだけが、過去の過ちを避ける手段であると考えています。その意味で、この時代を直視できる素材を提供し続けていきたいと思っています。



 よろしければこちらもどうぞ。
 木曽中生徒の軍事教練―射撃、行進
 木曽中生徒の日々―相撲、水泳、気取った姿

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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを利用しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼、そしてネット公開していただいていることに感謝いたします。公開方法については、首都大学東京准教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございます。

  

2018年01月31日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:49自動色付け

満州事変中の昭和7-8年、木曽中等学校の生徒たち #ニューラルネットワークによる自動色付け


 長野県木曽中等学校(現・木曽青峰高校=木曽町)の昭和7年度卒業アルバム掲載の写真を自動色付けしました。軍事教練の写真とは一味違う、生徒たちの素顔が蘇りました。こちらは、寄宿舎と生徒たち。こちらが元写真です。

 学校のあった木曽福島町では、毎年6月に「明治大帝御駐輦記念奉祝相撲大会」がありました。町役場前に土俵を築き、昼間は子供たち、そして夜になって青年たちが相撲を取り、町民を沸かせました。地元の中等学校の生徒、青年団らのチームの対抗戦は、一番の呼び物だったといいます。これが夜に入った昭和7年の同相撲大会です。

 こちらが元写真。

 出場を待つ、木曽中等学校の生徒たち。

 こちらが元写真。

 卒業アルバムには、水泳部の写真がありました。練習場所は、近くの木曽川だったようです。右から3人目は指導教官。

 こちらが元写真。

 飛び込みの瞬間。当時は、両手を後ろに引いているのが飛び込みの姿勢でした。

 こちらが元写真。

 彼らが通った学校には、やはり奉安殿がありました。

 こちらが元写真です。


 生徒たちの軍事教練の色付け写真も、ぜひご覧ください。

2018年1月30日 記

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2018年01月30日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:15自動色付け

昭和7-8年の木曽中学校における教練 #ニューラルネットワークによる自動色付け


 昭和7年度の長野県木曽中学校(現・木曽青峰高校)卒業記念アルバムより、教練の写真を抜き出して自動色付けを試みました。まずは、学校の校庭での分列行進。こちらが元写真。

 射撃。標的射撃用の威力の小さい弾丸を発射するもので、射程距離は20メートルほど。こうした狭い場所での初期射撃練習に向いていました。

 こちらが元写真。

 さきほどの写真の標的付近の写真です。こうして弾をよけつつ、新しい標的を用意しているのでしょう。

 こちらが元写真。

 街中での行軍。

 こちらが元写真。

 橋の上で待機。 市街地で演習のようなこともしていました。色付け効果は薄いのですが、動きがよいので掲載します。

 こちらが元写真。

 中等学校で教練が本格的に始まったのは大正14年。軍縮の影響で行き場のなくなった将校が中等学校に配属将校としておかれるようになり、ここに見るような行軍、射撃、部隊による活動といった基礎を学ばせるよう、しっかりした指導が始まりました。そして、担当地域にある連隊から将校が派遣されて仕上がりを見る査閲もこの時から始まりました。こちらが査閲官です。

 こちらが元写真。


 なお、配属将校は教練の指導だけではなく、学校での教職員や学生の言動にも目を光らせ、思想統制の一翼も担っていたとのことです。軍人が悪いのではなく、軍部がよいとする考え以外を受け入れない、論議させないということが最大の問題なのです。考えないよう、体に教え込む、ということでしょう。

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2018年1月29日 記

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2018年01月29日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:25自動色付け

戦前にやってた「朝日新聞は国賊だ!」キャンペーン―いいがかりとしか言えない内容であおる手法は既視感にあふれる

 こちらは、大阪を本拠とした国粋大衆党が昭和7年2月10日の紀元節に合わせて発行した冊子「大阪朝日新聞は正に国賊だ!」です。(収蔵しているのは、3月1日発行の第7版)

 参考までに、当時の朝日新聞は、満州事変の速報合戦を展開するなど、特別に反戦をうたったりすることなく、戦争を素直に報道し後押ししていた状況です。また、報道内容の縛りも現代とは比較にならない厳しさがありました。 「国賊を亡すことが国民の最大義務だ」「国賊新聞正体暴露」などと書いてある表紙をめくり、どんな主張があるかとみてみます。

 とにかく「国賊」と決めつけて、スローガンを連呼しています。「読むな広告をするな」とか、どっかで聞いたような言葉です、というか、86年前の言葉が今も生きているというのは、いろんな意味で情けない。

 「社是は共産主義謳歌」とある章は、レマルク著「その後に来るもの」を連載したことだけをもって非難。「内容と『その後に来るもの』の題名、既に不穏当である」と題名にまで難癖をつけます。ようするに、「その後」に何かを来させるというのは、現在の国家を転換させて、新しい国家をつくる狙いがあるとのこと(泣)。

 「大阪朝日新聞の大不敬」の章では、昭和5年の大観艦式の記事で「21発の奉送号砲を最後として、海の大絵巻のカタストローフの幕はするすると降りていった」との記述を槍玉に。「カタストローフ」というのは悲劇的不幸破滅の終結を意味するとして「国家の一大盛儀の記事中に不吉なる外国語を挿入し、皇室の尊厳を冒涜、帝国海軍の歴史を汚辱、国民思想を悪化」などと主張しております。不敬罪で告発をしたものの、裁判にならず残念だったと悔しがっていますが。

 とるに足らない言葉ばかりですが、この本の序は「反復の効果は恐ろしい」との書き出しで始まっています。怖いのはそこです。この冊子のようにまったく根拠がない、主張ともいえないプロパガンダでも、繰り返されることで次第にそれが普通になること。論理的な説明よりも、こうした感情に訴える言葉は効果てきめんです。そういう意味で、この書き出しは現代にも当てはまるのではないか。そんな思いがしてなりません。

2018年1月28日 記

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2018年01月28日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:22収蔵品

戦争のために用意された物資は、戦争が終わると生まれ変わりました―これは何から何へ?

 これは、戦時中に使われていたある物資を戦後、水筒にする途中だったものです。

 そこに穴を埋めた跡があります。昭和20年の刻印もあります。

 大きさや形は少し違いますが、こんなものになるはずでした。

 底には穴が。

 とうにお分かりですよね。防毒マスクの吸収缶です。

 この部品を水筒に再生しようと思いついた人はすごいって思います。底の穴の埋め方から、それなりの技術をちゃんと生かしていると。そして終戦時にこの物資をどうやって確保したか、大変興味があります。おそらく、日本全国で目端の利く人たちがうまく立ち回っていたのでしょう。

 昭和20年9月3日の信濃毎日新聞。「鉄かぶとの鍋はいかが」と題した記事がありました。

 諏訪郡永明村の原商事の取締役が県に見本を持ち込み、県も「県内には1万個以上の鉄兜」があり、全部をお鍋に化けさせたいとその方法を検討中とか。

 戦争が終わっても、人々の営みは続きます。そんな力強さも感じます。ぜひ、再生鍋を手に入れたいものです。

2018年1月27日 記

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2018年01月27日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:21収蔵品

戦争柄は大人の着物にも―デザインとしては力が入っている?

 敗戦まで、軍隊は身近にあり頼もしい存在と思われていたのでしょう。軍艦や戦車、飛行機、戦争ごっこなど、さまざまな軍隊絡みのデザインを施した、いわゆる「戦争柄」という布地が作られていました。主には子供向けですが、大人向けの品もありました。

 青年向けだったのでしょうか。けっこう、明るい色合いの着物です。青地には白い飛行機を、雲のような白い模様の上にはいろんな色の飛行機を配置してあります。

 押しつけがましさがなく、これなら今でも通用するかと。どんな場面で着たかは興味深いところです。

 それにしても、小さい子供の戦争柄は親が健やかな成長、強い子にとの思いを込めたと解釈できますが、こちらはどうでしょう。うけ狙いなんでしょうかねえ。いずれにしても、いかにしたら売れるか、が根底にあるのは間違いないですね。

2018年1月26日 記

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2018年01月26日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:00収蔵品

新体制美人は「腹筋が発達して多産型」―制定に拍手する女性の多いことは事実らしい(笑)

 戦争が進むと、国が求める女性像が変わります。庶民がじゃありません。国が、ですよ。

 国が求める女性像を、紙を押さえて無理やり出版物に反映させたのが戦前の特徴です。写真は、左が昭和11年11月号、右が昭和20年1月号の、それぞれ月刊誌主婦之友です。「表紙は勤労女性にしろ」から始まり、「笑顔はいけない」とか言って「こんなものが戦力になるか」とか罵声を浴びせ、さんざん干渉が加わり、忖度した結果の変化です。

 そんなご時世、女性の体形にだってだまっちゃいられません。昭和16年、大政翼賛会国民生活指導部が主催して「新女性美創定研究会」が開かれます。婦人科医、結核療養所長、日本女子音楽体操学校長、文化学院教授、津田英学塾教授、文展審査員の6人(3人女性)が論議百出します。

 昭和16年2月1日付信濃毎日新聞夕刊の記事を見ますと、
 <美人画家でもある(文展審査員の)伊東深水画伯は「従来の白痴美は断然捨てるべきだ。徳川末期の遊郭美人を中心にした歌麿的美、明治から大正にかけての竹久夢二式美人はいかん。もっと動きのあり迫力のある、それでいて知性に輝く動的な美人こそ…」。

 医師2人も「彫塑美の最もたるものはいずれも腹筋が著しく発達している。ミロのビーナスを見たまえ。あれが医師の立場から言っても理想的タイプだし、腹筋の発達している女性は子供をたくさん産むし皮膚のつやから違う。目の輝きも、すべて動きのある美の根本はまづ腹の筋肉発達いかんにある」とうんちくを傾けて結論にする。

 よって新時代の美人は浮世絵とは反対の、たくましい律動美をもつ、腹筋の発達し、子供をたくさん産む女性ということになるらしい。「ビーナスに着物を着せたら不恰好でしょうね」。誰かが半畳を入れたがこれは国策とあればがまんしましょうとの実用的観点から不問。

 さて、翼賛会では議論はこのくらいでこれからは理想的実物見本を探し、写真宣伝はもちろん、マネキン、映画などで紹介するというが、この新美人制定に拍手する女性の多いことは事実らしい。>

 それにしても、勝手なことばかり言っていますね。そもそも、出席者は最初からこの取り組みをちゃかしていたのか真面目に考えていたのか、その辺からして疑問を感じます。最後の文など、そんな場の雰囲気を見切ったものかも。

 でも、大政翼賛会は大真面目だったのでしょうね。「理想的実物見本」は探せたのでしょうか。

2018年1月26日 記

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2018年01月26日 Posted by 信州戦争資料センター at 00:10収蔵品

産めよ殖やせよ「たくさん子供産んだら表彰!」―狙いは子供の増加より「家制度」維持

 日中戦争が短期戦で終わりそうになくなってくると、国が女性たちに求めたのは次世代を担う子供をたくさん産み育てること。そんな中で、多産家庭への表彰が始まりました。

 こちらは、北海道札幌市の地区で出した9人の子を持つ家庭への表彰状。厚生省では、昭和15年に10人以上の子供を産み健全に育成した家庭を表彰する「優良多子家庭表彰」を開始しました。当センター所蔵の表彰状は、これに漏れた人を表彰してやりたいと企画したのかもしれません。なぜか、男性に対してだけの表彰ですが。

 優良多子家庭表彰要綱の趣旨全文は、以下のようになっています。
 「堅実なる家庭を営み子女を健全に育成するは国民生活の根幹たるの基礎を堅固ならしめ国本の培養に寄与するゆえんなり。ことに、多数の子女を擁し之が発育を全うするは一般の亀鑑となすに足るものとす。よってこれらの家庭を表彰し、もって児童愛護精神の昂揚を図り家族制度の確保と国運の隆昌に資せんとす」

 人口増加に関する言葉が一語も入っていません(驚愕)。

 多数の子女を育てるのは見習うべき姿であるとは言っていますが、あくまで「家」「家族制度」の維持確保なのです。

 厚生省は「産めよ殖やせよ」政策として、昭和17年には妊産婦手帳の発行で妊娠期の健康管理や優先的な配給に役立てています。また、家族手当の創設や、親子の健康管理の推進といった、現代にもつながる地味な仕事をこなしていました(もちろん、狙いは優秀な兵隊をつくることであったにせよ)。結婚の奨励も盛んに行われましたが、無理やり子供を産ませたというのはないようであり、人権無視とかではなさそう。

 こうした、ある種きちんと効果がある政策に対し、表彰制度は浮いて見えます。だって「表彰されるから頑張って10人にするか」とは考えないでしょう。そして、表彰条件には「父母および子女は性向善良にしてその家庭堅実なること」なんてあるのが、単純な子育てではなく、大日本帝国が理想とする「家」を表彰する狙いが明らかです。

 最近も多産家庭を表彰するという国の案が出てきたとき、とてつもない違和感を覚えたのは、このためだったのかと。「表彰されるから〇人産むか」と考える人はいないから多産には寄与しないのに、政策として持ち出すのは「家制度」のためだったからなのだと。

2018年1月25日 記

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2018年01月25日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:07収蔵品

昭和18年、女子体力章検定導入!男子の検定と同様の種目は「運搬」という意外性

 日中戦争下の昭和14年、健兵健民の育成を狙って男子を対象に始まった「体力章検定」。

(ニューラルネットワークによる自動色付け。小県蚕業学校=現・上田東高校=昭和17年度卒業アルバムより)

 太平洋戦争に突入した昭和18年からは、同様の狙いで女子を対象とした「女子体力章検定」が始まります。検定種目は①千メートル速行②縄跳び③短棒投げ④運搬50メートル⑤体操―の5種類。ほかに、特殊検定として水泳、強歩がありました。

 男子の検定種目は①100メートル走②2000メートル走③走り幅跳び④懸垂⑤手榴弾投げ⑥重量運搬―の5種類。
 なんと、共通しているのは投擲と運搬! 

 ここに掲げたのは、男子の重量運搬。男子の場合、40-60キロの俵を担いで50メートルを走るとなっていました。女子は同じく50メートルで、12-24キロの物を運ぶとなっています。調べてみると、女子の場合は両手から下げるか抱えて運ぶとなっており、例えば両手にバケツを持って、そこに規定の重さになるよう分散したモノを運んだようです。上級だと、24キロの物を下げ、18秒で走る必要がありました。

 男子は俵担ぎ、女子は両手にバケツ…露骨に男女の性別分業をしてあります。

 短棒投げは、重さ300グラム、長さ30センチの棒を投げることになっています。男子の手榴弾投げの540グラムよりはずっと軽くなりますが、99式手榴弾は330グラムの重さだったので、これに準拠したのではないかと思われます。

 当時の新聞に、女子体力章検定制定に関する記事があります。ここには「産み育てる責任と義務を持つ女子青少年を健全そのものにするために役立てることとなった」「世界人口戦の覇者となり得る母体を造りあげようというのである」と書いてあります。(昭和17年12月22日付信濃毎日新聞)

 子供を産むのも育てるのも極めて個人的なことなのに、とんでもない口出しです。

 この記事をおかしい、と思える感度が、実は今、必要なのではないかーと考えたりしています。

2018年1月24日 記

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2018年01月24日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:25時事コラム

パチモノくさい香りがただよう「のらくろ」の花瓶


 戦時下の品をといろいろあさっていますと、時折、何ともいえない味わいに惹かれて収集してしまうものもあります。こちらなどは、そのいい例です。昭和6年1月から昭和16年10月まで、少年倶楽部という子供向け月刊誌で連載したまんがの主人公「のらくろ」です。

 こちらは、作者の田河水泡さんと実際の「のらくろ」。もっとも、のらくろの絵も時代とともに全然変わってしまうのですが。

 後ろから。

 花瓶になっており、釘などにかけられるよう、穴もあります。

  ちゃんと銃剣も描いてあります。

 銃が曲がっていたり、ぐねぐねとした表現から、子供の作品かとも思ったのですが、しっかりした磁器製であり、背後の処理など工業的に作ったとしか思えないので、やはり商品だったのでしょう。そして、きれいだったら、ここまでは惹かれなかったかも。のらくろの、どこか抜けている良さが現れた名品か(笑)。

 そして作者の田河水泡さんのご先祖は長野県の臼田町出身、またご本人も戦時中の昭和19年に長野県小県郡丸子町(現・上田市)に疎開してきており、何となく、長野県との縁があるのでした。

2018年1月23日 記

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2018年01月23日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:29収蔵品