1941年、戦時下の信州の農村にて



 日中戦争がいつ果てるともなく続いていた1941(昭和16)年7月18日の長野県の地方紙「信濃毎日新聞」の学芸欄に「村のたより 臭い話」という、長野県小県郡からの投稿が掲載されました。し尿汲み取りに精を出していた農家の話題をユーモラスに描き出しつつ、日中戦争で農家の仕事の様子や集めるし尿の中身まで変化してきた様子が伝わる貴重な記録にもなっています。また、女性が生理で使う綿も再利用されていた現実も見せてくれます。
 以下に、著作権切れを利用して転載します。読みにくい漢字やかなは適宜あらためたほか、あまりにもちょっとという部分など、一部割愛しました。なかなか伝わりにくい戦時下の品不足の農村の姿の、ちょっとした記録として気楽に、ごはん時を避けて読んでいただければうれしいです。写真は戦時中に発行された「信濃の子供 上巻」より、安曇野の田植えです。

「村のたより 臭い話」東町唄
 松五郎が田を買った。坪3円で3段3畝。一般農家としては、日常の煙草銭にも事を欠く春蚕の上蔟前なので、約3000両の大金を、耳をそろえてすぱっと並べたということは、たしかに村中の心臓を一斉に、ストップさせたかと思うほどの価値は充分にあった。
 これで彼は八段歩からの地持ちである。俗にいう3斗2升まきの自作農である。耕地の狭いこのあたりでは、もう立派な村の有力者の部類なのだ。
 松五郎は、別に、糞五郎とも言った。そのほうがむしろ村では通りがよかった。たとへ太陽の昇らぬ日があっても松五郎の糞尿運搬の姿を見かけぬとゆう日は、ここ30年来、1日としてなかった。僅か、8畝歩そこそこの、先祖からうけついだ水飲百姓から、糞尿汲み取りで今日まで叩き上げた彼にとっては、糞五郎のレッテルは決して不名誉なものではなく、また私たちにとっても、むしろそのほうがずっと親しみ深いものであった。
 松五郎が仕事に出かけるのは決まって夜半の2時頃である。20個の肥桶を運送車につけて、馬の手綱をとり、1回金30銭の手数料で、いはゆる町のお得意さんの便所を回って歩くのだが、汲み取りを終えて村へ戻ってくるのは大抵、農家が朝餉のかまどに火を入れる頃である。それを1台、金3円位で売りさばいた。糞尿を予約した田畑へ撒き散らすと、それから彼は、人並みに朝飯をかっこみ、野良へ出かけるのである。つまり松五郎は、めし前仕事で稼ぎ通したのである。
 例えばその糞尿がもしも製糸工場などのものであったりすると、彼は野良の帰りに必ずそれを撒き散らした田畑へ立ち寄って女工たちが月々に使用する脱脂綿を拾い集めて持ち帰った。(略)その脱脂綿が相当にたまると、裏の大河へ行き大きなざるの中でじゃぶじゃぶと洗った。それを河原で幾日もほし上げて、バタ屋へ良い値で売り払っていたのである。
村の人たちは、実に嫌なことをする―とは思っていても、元来この脱脂綿とかおかしなゴムは、いつまでも腐らずに、ぐにゃぐにゃしていて、田畑の手入れにまことに気持ちの悪いものなので、内心は、それを片付けてくれるのだから、むしろ喜んでいる人のほうが多かったかもしれない。そうしたものは、工場地帯の糞尿が第一位で、次は山の手の俸給生活者の方に多いとゆうことであった。だが、松五郎にしてみれば、それはまた良い副収入の一つでもあったのである。
          ◇
 大体、下肥の汲み取りなどとゆうことは、事変前の科学肥料が自由にいくらでも手に入るときには、村の人たちは全然問題にしていなかった。事実その手数といい効能といい、金肥に比較すると、てんで馬鹿らしいほど割の悪いものであったからである。
 だから多くの百姓は、自分のしり出した糞尿の始末でさえ面倒くさがってい、大溜は満々と黄金がだぶつき(略)それがお町へなど行くと農家が少ないだけにますますものすごく、黄金の悩みは実に深刻そのものであった。その中をせっせと松五郎は汲み取りを続けていたのであるから、たとえ糞五郎さんであろうとも、彼は町の人達にとっては、太陽のごとく、また涙の出るほどありがたい存在だったのである。
 それが支那事変に入って1年2年、世の移り変わりとともに彼の仕事はめきめきと頭角を表してきた。物資の統制強化によって、科学肥料も自由には手に入らなくなった。耕地面積を基準とする配給制度(センター注・割り当て分を個人が購入する。無料ではない)になっても最少限度の必要量さえ確保ができず、一方、増産は国家の喫緊事なのだ。今まで金肥万能を誇っていた多くの農家は、全く狼狽の極みに達した。配給の度にいまわしい紛失事件が起こったり、一握りの間違いから大の男が口角泡を飛ばして小半日も争ったり、あるいはこうした足元を狙って、訳のわからぬ肥料を抱き合わせて儲ける輩があったりし、肥料本来の、実に芳しからざる現象さえも醸し出してきたのである。
 そこで、今まで振り向きもされなかった糞尿の争奪がはじまった。時折は小競り合いさえも聞くようになってきた。それが村内だけではおさまらず、お町まで延長したのである。こうなると、人の気持ちとゆうものは妙なものである。現に、糞尿がだぶついて困っていても、松五郎さんでなければ、といった調子なのだ。松五郎の実績が最大限度に物を言うのである。
 いきおい、糞尿の値もせりあがった。1台3円が4円になり5円になった。それでも申し込みが多すぎて、1回の運送を2回にし3回に増しても間に合わないのである。田んぼの仕事も人頼みにし人を雇って運送車を2台に増やそうかとさえ考えるに至った。今ではもう、松五郎の仕事は村ではなくてはならぬ重要な、配給機関の一つになった。
 松五郎は糞尿の汲み分けを大別して3通りにしていた。いわゆる山の手の俸給生活者と、裏町の労働階級とである。昔は月給取りの方が生活に余裕があって、食物も大分おごっているらしく、肥料成分も一等級であったが、最近では逆だとゆうのである。つまり安月給ではめざしも食えないとゆう世間の言葉の通りで、何としてもこの頃は景気のいい労働者のしり出した奴でなければ、ろくな大根もできませんわい―とゆうのである。その中間が、商人や工場の栄養料理のかすだが、どうもこれは少し水っぽい上に、紙くずが多すぎていけないとゆうのである。
 概して事変前とは、糞尿も品質が低下したことだけは争えない事実である(以下略)。

以上、転載終了。いかがでしたでしょうか。こうした俗っぽい話は、意外に記録に残りにくいと思い、非難覚悟でまとめました。失礼しました。

2020年9月23日

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2020年09月23日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:21資料