終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに

 第4回展示会で「うちにもいろいろある」と書置きしてくれた須坂市の男性Oさん(昭和17年2月生まれ)のお宅をお尋ねしました。するといきなり「後世に伝えてくれるなら」と、長さ約70センチ、直径1センチほどの通信ケーブルをご寄贈いただきました。「松代大本営の工事で敷設されたものだよ」との説明に目を見張りました。
終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに>

 外回りは亜鉛でしょうか。
終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに

 3メートル近くあったケーブルの切れかかっていた部分を切断してくれました。中心は銅線の束ですが、内部の線の入り具合は、もっと鋭利なものですぱっと切らないとわかりません。
終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに

 さて、長野県の善光寺平に、天皇や皇族、軍、政府機関の一部、日本放送協会などを避難させるため、陸軍が主導して計画、建設した「松代大本営」。昭和19年10月4日に陸軍大臣による工事開始命令が出て、8000人とも言われる朝鮮人労働者(自主渡航に加え、徴用による強制連行を含むとみられる)を中心に松代町、西条村、豊栄村(いずれも現・長野市松代)へ主たる地下壕を建設しました。地図は「図録 松代大本営」から、地図上の赤丸、青丸は当方が加工しました。地図下部の赤丸が松代地区です。
終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに

 そして、地図上方の赤丸が送信施設の一つを置く予定だった雁田山(現・小布施町)です。昭和20年7月、大本営陸軍第4通信隊が送り込まれてきて、須坂町鎌田山(地図上の青丸ー現・須坂市)に本部を置きます。この部隊が雁田山から松代まで、諸施設を接続する地下ケーブルの敷設工事を始め、無線アンテナを設置中に終戦となります。

 Oさんによると、当時、谷街道と呼ばれた道路沿いに雁田山に向かう通信ケーブルを敷設していき、沿道の農家で兵士が食事をとっていたということです。Oさん宅にも兵隊さんが寄ったのを覚えているということでした。そして戦後、貴重な資材であるということか、ケーブルは撤去されたといいます。今回ご寄贈いただいたのは、撤去時に父親がゆずってもらったものとのことでした。ちょうど切れかかっていたところで切断した端切れだったのでしょう。終戦間際の工事の記憶とともに、寄贈いただいた品を大切に伝えたいと思います。

 信州戦争資料センターは戦時下の庶民の道具を中心に収集していますが、こうした当時の地域と関連した軍の品も「戦場には前線も後方もない」との考えで大切にしています。松代大本営関連では、地下壕の中で拾われたという瀬戸物の代用缶詰があります。
終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに

 また終戦後、最初に松代大本営のことを報じた昭和20年10月26日付の信濃毎日新聞も伊那市の方から寄贈を受けました。
終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに

 「謎は解けた 松代の横穴」の見出しが、地元にも知らされなかった工事の雰囲気を伝えています。
終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに

 整備の済んでいた地下壕内の写真もあります。
終戦目前、松代大本営のために敷設された通信ケーブルをご寄贈いただく―「作業していた兵隊が飯食っていった」との証言とともに

 代表も20年以上前、松代大本営工事の警備にあたっていた部隊の元兵士にお行き会いし、この方が「何かに使えるだろう」と数枚のヒノキの板をやはり須坂の自宅に持ち帰ったというのを見せてもらったことがあります。今回は、実際の松代大本営工事の一端もうかがえる、貴重な発見でした。戦場など遠いことと思っていた長野で大工事が始まり空襲があり…まさに、戦争はすべての人を間接的にも直接的にも巻き込んでいくことを伝えていきたいと思います。

2018年8月27日 記

参考資料「図録 松代大本営」(和田登編著)

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2018年08月27日 Posted by信州戦争資料センター at 21:16 │収蔵品