昭和17年10月13日、釣鐘戦時供出の記念写真入手・カラー化―追跡調査で松本市の岩田寺鐘楼と判明!

 オークションで、昭和17年10月13日撮影の「釣鐘戦時供出記念」の写真を入手しました。

 立派なかやぶき屋根の鐘楼。国家総動員法に基づく金属類回収令によって金属回収が始まったのは、日中戦争の泥沼から抜け出せないでいた、太平洋戦争開戦前の昭和16年秋のこと。そしてそれだけでは足りないとして翌年10月から第2次回収があり、この際、大部分のお寺から梵鐘や仏具が供出されています。この写真は、その第2次回収が始まってすぐのこと。地域の人が別れを惜しむように集まっています。

 一方、この写真には寺の名前が入っていませんでした。手がかりは鐘楼の所に下げてある垂れ幕に書いてある「穴澤区」という地名と、写真裏面の「松本市 深志写真所」のスタンプでした。そこで地名を調べてみると、どうやら松本市に合併した旧東筑摩郡四賀村の地名であると推測できました。そこで、旧四賀村内で穴澤区とつながりがありそうなお寺を検索し、問い合わせることにしました。

 最初に現在も立派な鐘楼がある保福寺に問い合わせたところ、確かに戦時中に梵鐘を供出し、昭和18年3月31日付の感謝状があることを教えていただきました。「当時、このあたりのお寺で出さなかったところはないと思うよ」とのことでした。しかし、現在の鐘楼は瓦ぶきであること、そして地域としては旧四賀村の「錦部」に位置し、穴澤区のあった「会田」とは違うということで、どうやら該当しないようです。会田にあるいくつかのお寺を教えていただきました。

 その一つ、広田寺にお尋ねしたところ、かやぶきの鐘楼と説明しただけで「それは岩田寺だね」と即答いただきました。岩田寺は穴澤区の人たちが支えていた無住職の寺で、最近まで、お寺を地区の公民館代わりにしていたこと、最近、本当の公民館に建て替えたこと、その横にこの鐘楼が現存していることをお教えいただきました。

 「もともと地域で支えていたお寺で、釣鐘は供出した後、戦後になっても作り直すことはなかったようです」という。ただ、鐘楼のかやぶき屋根は葺き替えをして守ってきた様子でした。ちなみに、穴澤区のもともとの住民の姓は「長岩」と「坪田」で、双方の名字をとって「岩田寺」としたとか。そんな地域のいわれまで教わりました。

 ニューラルネットワークによる自動色付けをすると、こんな感じになりました。

 山の奥で住民たちが守ってきた寺の鐘。それを出すために集まった人々。いったいどんな気持ちだったのでしょうか。力になればと意気込んでいたのでしょうか。こんなところまで権力の力が及んでいた、これが戦争を推進する国家の姿なのでしょう。

 いずれ現地に足を運び、今の姿も合わせて残したいと思っています。

2018年6月30日 記

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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。

※他の自動色付け写真はこちらの一覧からごらんください。  

2018年06月30日 Posted by 信州戦争資料センター at 17:18収蔵品

昭和13年正月、戦争景気真っ盛りの時に合わせたとみられる羽子板―やがて軍事の波にのまれて

 昭和13年の正月に向けて発売された羽子板を入手しました。前年に日中戦争がはじまり、南京を陥落させるなど勢いに乗って明けた正月です。

 着飾った女性ですが、日の丸に提灯は「皇軍万歳」、たすきは「銃後護(まもる)」とあります。

 裏は一転して緩いものですが、まあ、実用を考えれば仕方ないことでしょう。

 昭和13年の正月、長野県からも松本50連隊が満州方面、150連隊が南京を攻略してから北支で引き続き戦闘という状態でした。

 一方、長野県内は軍需景気にわいており、長野市の初売りでは大型店が混みあい、上田市の八日堂縁日も「ぐんと戦勝の景気」という状態。松本市や上田市ではパチンコ店が乱立。高給を求めて割に合わない女工や商店員が不足する、といった感じ。2月に入って「午後11時以降の歌舞音曲停止」となりますが、いかににぎわっていたか、そしてその時間までなら騒いでも良いとせざるをえなかった、そんな様子が伝わります。

 一方で、国家総動員法が成立したりするのですが。翌年にはコメの不作や電力危機、昭和15年には隣組を整備しての配給制度、そしてまだ太平洋戦争が始まらないうちに、昭和16年には金属回収も国家総動員法によって始まります。この羽子板は、そんな戦争景気の一時の様子を伝える品なのです。

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2018年06月28日 Posted by 信州戦争資料センター at 00:11収蔵品

戦争が始まってノリノリ―明治の長野県人たち

 明治27年7月―明治28年3月にあった、日本初の対外戦争「日清戦争」。その10年後の37年2月―38年9月に展開した「日露戦争」。それぞれの戦争下で、長野県民がはしゃいで作り出した俗謡を手に入れました。こちらは「日本軍日清戦争大勝利大和ぶし・上」です。

 発行は明治28年1月21日。長野県上水内郡長野町(現・長野市)の個人が出したもの。8ページにわたって20の歌を書いてあり、価格は1銭5厘。

 木版刷りで、赤一色で目立たせたのでしょう。流れるような文字で、残念ながら、完全には読めません。「日本の軍人は、7万あまりのちゃんちゃんを やまとがたなでみなごろし」というように、清国の兵を「ちゃんちゃん」という蔑称を使ったり表現もどぎついものです。発行時期は、日本軍が旅順や大連を占領、黄海海戦にも勝利してほぼ戦闘が終わろうという時期。最初は大国との戦争に不安だったのが勝利を確実にしてうかれて作ったのでしょう。

 こちらは、日露戦争時の「露西亜征バツ数へ歌」と、謡曲とみられる「露西亜征バツ」。いずれも一枚の神に活字印刷で、それぞれ定価2銭となっていました。発行は長野県更級郡八幡村(現・千曲市)の鈴木さん、著述人は更級郡布施村の宮入さんです。

 こちらの発行は、明治37年3月19日。戦争が始まって1か月余りしかたっていません。それでも「いつも勇まし我が軍は連戦連勝大愉快」と浮かれっぷりは早いです。「仁川旅順の快戦は欧米諸国も舌を巻く」とし、仁川はともかく旅順の攻略や艦隊撃滅はまだなのにもう終わったかのような書きっぷり。最後はウラル山脈を越えて攻め入り「露国を滅ぼし害を抜き 日本の国威を輝かせ」と〆ています。

 なんといいますか、盛り上げるのはよいとしても、日清戦争当時の不安感はみじんも感じられません。日露戦争のころは、こんな雰囲気で一気にやっつけてしまえという高揚感に包まれていたのかもしれません。

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2018年06月21日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:34収蔵品

映画「元ゼロ戦パイロットの100年」上映会場で披露する戦時紙芝居の打ち合わせをしました―フクチャンとチョキン上演します

 信州戦争資料センターは、ドキュメンタリー映画「原田要 平和への祈り 元ゼロ戦パイロットの100年」(上映期間 2018年7月28日―8月17日、上映会場 長野相生座ロキシー 長野市権堂町2255・電話026・232・3016)の
上映期間中、戦争資料展示と戦時紙芝居の提供をします。本日、紙芝居の上演をしてくださる方たちと打ち合わせをしまして、演目を決定しました。

 漫画家として当時から戦後にかけて活躍した横山隆一のキャラクターを使った「フクチャンとチョキン」です。昭和15年11月、日本教育紙芝居協会発行です。

 ストーリーは、フクチャンがお国のために小遣いを頑張って貯金し、それを知ったおじいさんも協力して、たまったお金で国債を買うというもの。子供も楽しめるよう、ずっこけたりとぼけたりといった味わいも含めて、子供やお年寄りが頑張る姿を通して、貯蓄と国債の消化を訴えています。

 ところで、なぜ貯金や国債の消化が必要だったのでしょうか。日本は昭和12年に日中戦争が始まってから、中国の戦争にかかる臨時軍事費を国債を発行してまかないます。今でいう、赤字国債です。当時、日本は国際連盟を脱退するなど、孤立化を深めていた時代。日露戦争当時と違い、どこの国も投資家も、日本の国債を積極的に買ってくれません。これを国内で消化しないと予算が立たないということになります。

 もう一つ、軍需品を購入したり生産したりすると、それだけ市中に日本円が出回ります。これが消費に回りますと、普通なら経済が活性化するところですが、戦争に全力を傾けている国内はモノが不足しています。そこへお金だけは豊富となれば、需給バランスが崩れてインフレになります。そもそも、通常の予算に無理して戦争の予算を載せるわけですから、日本の経済力と貨幣の量のバランスはもう崩れているわけです。それが市中にまで広がるのを防ぐため、できる限り国債や貯金で消費を押さえなければ、と政府は考えたわけです。

 しかし、ここに重大な落とし穴があります。国債といい、貯蓄といい、いずれも利息が付いて回ります。つまり、将来は流通する円の量が確実に増え、インフレになるわけです。これを先送りにしただけにすぎません。これでは国内も回らない。そこで、搾取することで穴埋めしていかなければならなくなり、満州国からの収奪や南方への進出につながるわけです。

 日中戦争を取回す経済力がないのに、大東亜共栄圏の経営など、できるはずもなかったのです。結局、太平洋戦争が始まり各地を占領しても、初期投資の資金も技術もなく、占領下の各地では紙屑のような軍票がすられてインフレが進行し、日本統治への不信につながったのです。

 紙芝居を笑って見ながら、国民に消費節約を日中戦争中から訴えなければならなかった日本の経済のぜい弱さと、おかまいなしに進んだ戦争のことに思いをはせてもらえたらと思います。

 会場の映画館ロビーでは、戦争の雰囲気を盛り上げた当時の広告やポスター、映画に登場する資料などを展示します。紙芝居の上演は7月28、29、8月11日です。時間等は映画館か映画のホームページでご確認ください。監督挨拶も合わせて行う予定です。また、8月11日は信州戦争資料センターと八十二文化財団の共催による展示会をギャラリー82で行っていますので、紙芝居・映画鑑賞と展示会と、はしごをしていただけると大変ありがたいです。よろしくお願いします。

 ★ただし、8月11日は紙芝居の上演はありません

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2018年06月17日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:22収蔵品

慰問品2種 前線の兵士のためもうちょっと工夫できないかと思うことと慰問と名付けないと売れない事情と

 戦時下、前線には多くの兵士が配置されており、その人たちに慰問品を贈るのも銃後国民の務めであるーと、さまざまなものが作られ、送り出されました。こちらは長野県須坂町(現・須坂市)の軍人後援会がつくった「御慰問 須坂町名勝絵はがき」です。

 製作年代は不明。3枚のセットです。こちらは「信州須坂町の一部」。製糸で栄えた町らしく工場の煙突が目立ちます。

 こちらは「信州須坂町名所天徳寺」。古刹の雪景色の風情はモノクロに合います。

 さて、三枚目は「信州須坂臥龍公園山上の一部」。

 えー、1、2枚目はともかく、3枚目は、何をメインに据えて撮ったのか、なぜこの場所を選んだか、さっぱりわかりません。須坂出身の兵士たちが、「そう、ここここ!」と喜ぶエピソードがあったかどうか、定かではありません。というか、当時の絵葉書は何を一体考えて撮ったのか不明なものが多いのも事実ですが。

 もう一つ。こちらは、皇軍御慰問を銘打った「文化ウツシエ」です。華やかさがよいですね。昭和18年1月に発売されたものです。

 これがそのまま戦場に送られたか、というとそうではありません。中には文字や絵を染料で描いた紙が入っており、これを切って布に載せ、アイロンで転写するというものです。

 切り抜いた文字から「まさお」と転写したと想像します。絵は何だったのでしょうか。やっぱりお花だったのでしょうか。そして、転写してつくった何かは、皇軍兵士の手元に行ったのでしょうか。それともこのご家庭の家族などが使われたのでしょうか。なんでも「慰問」としておけば、売る側も買う側も精神的な負担が少なかったのかもしれません。

2018年6月13日 記

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2018年06月13日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:37収蔵品

収集活動をしていると、こんな偶然も起こって楽しい―昭和6年には長野県のあちこちで映画「大空軍」上映と判明

 昭和6年2月11日の紀元節に合わせて、松竹系の劇場で映画「大空軍」が封切られました。戦争で首都の上空を守る日本陸軍航空隊の活躍を描いた作品。内容は後述するとして、長野県内でも陸軍省後援とあり、各地で上映会があったようです。こちらは長野県下伊那郡大島村(現・松川町)の大島劇場で行った上映会のチラシです。

 「見よ!我が空軍の威力を!」のコピーと複葉機の群れ。同時上映の「命の的無理やり突破 一万里」も気になりますが。

 後援は陸軍省、陸軍航空本部など。出動部隊も所沢、下志津、明野と各地の陸軍飛行学校が並ぶほか、気球や高射砲の部隊も参加。近衛騎兵連隊とか、全面協力ですな。

 一方、こちらは全く別の方面から入手した映画「大空軍」や喜劇映画を上映する「長野市の相生座(現役です!)の在郷軍人家族優待券です。帝国在郷軍人会長野市連合分会が後援しております。この二つの資料から、昭和6年にあちこちを巡回したのが分かります。ちなみに、満州事変は昭和6年9月18日勃発です。8月6日の大島村、9月11日からの長野市の上映会で、特に触れていないことから、昭和6年の封切年のものと判断できます。

 全然関係なく集めてきた資料が突然突き合わさり、その時代を浮き彫りにさせるのが、この活動の醍醐味です。

 ところでこの映画、フィルムは現存していません。どんなストーリーだったか、この当時の防空意識はどうだったか、東京都中央区の松竹大谷図書館を訪ねたところ、昭和5年11月発行のキネマ旬報382号にあらすじが載っていることが分かりました。せっかくですのでご紹介いたします。なお、主演の鹿島陽之助は飛行機の操縦ができたようですが、実際に操縦したかはフィルムがなく、不明です。当時の陸軍の精鋭を記録したであろう映画ですが、残念なことです。

 解説―東京シネマ商会が陸軍省の後援のもとに製作した航空映画である。

 略筋―飛行学生小村少尉は晴れの単独飛行試験の日、不慮の災厄のためけがをしたのが因となり飛行界を退かねばならなくなったが、教官山田大尉をはじめ僚友安東少尉及びその妹容子に激励され、更生の意気でエンジンの発明に没頭する。
 その後安東はイタリアへ航空視察のため派遣されたが、かねてから危機をはらんでいた某国との国交断絶されたので急ぎ帰国、祖国のため戦線に立った。ついに空に海に陸に戦は日とともに白熱化していく。突如敵機が帝都の上空を襲った。都民の混乱の中にわが飛行機は敵機を迎え撃ち、山田編隊長は名誉の戦死を遂げた。
 この報に接した飛行隊本部では安東を先頭に戦場に送った。安東の機こそは小村が血と涙との結晶によって発明したエンジンが取り付けら
れているのだった。山田少尉の復讐のため安東は阿修羅のごとく敵機に迫った。敵将! それは安東がイタリアに外遊中親交を結んだ某国の航空兵大尉アドルフ・クラアクその人だった。安東は友情と公敵とのジレンマに苦悩したが、涙を呑んでクラアクに当たった。激戦数刻、敵機は姿を消した。
 クラアクは安東に射落とされたが奇跡的に助かり、わが野戦病院に収容され、ここで図らずも重傷を負った安東と邂逅してお互いに祖国のために健康を祝した。
 やがて休戦となり、戦塵は全く収まった。かつては涙の日を送った小村と容子との上に、限りなき幸福は訪れたのであった。

 まだ本当に飛行機の威力というものを考えていないころの牧歌的な内容ですが、陸軍としては国民の意識向上に期待したのでしょう。仮想敵はやはりソ連でしょう。現実にこのころ少しづつ防空演習が開かれるようになり、関東防空演習が行われるのは昭和8年のことです。そして、信濃毎日新聞主筆の桐生悠々が本土に敵を迎え撃つのはもはや敗北であるとしてこの演習を批判。彼は新聞社を追われますが、10数年後、その警鐘は見事に当たることになりますが、そのあたりはまた別の機会に。

2018年6月10日 記

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2018年06月10日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:02収蔵品

紀元は2600年のお祝いの裏に節米やら万博中止やら戦争の影―国民の不満をそらす狙いもあったか

 昭和15年11月10日、宮城前広場にて紀元2600年式典があり、翌日には同じ場所で紀元2600年奉祝会があありました。日本全国から約5万人が参列しました。こちらの写真は、島根・鳥取方面から参加された方が持っておられた品で、奉祝会で配られた酒饌のとっくりと参列者心得です。とっくりは表面に菊をあしらった岐阜県製、日本酒11種を調合したものが入っておりました。

 期間限定で提灯行列なども許可された式典でした。しかし、2600年の記念に計画した五輪(東京、札幌会場を予定)は日中戦争の影響で鉄を確保できず、競技施設を造れないことなどから既に昭和13年に返上。合わせて開催予定だった万国博覧会(東京、横浜会場を予定)も中止していました。こちらは万国博覧会の前売り回数入場券です。

 そしてこの年、政府の国民精神総動員本部は5月10日、戦時報国運動の一つとして、コメの節約を国民に呼びかける「節米実施要領」をまとめます。麦や野菜をまぜて炊くこと、うどんなどの代用食を食べることを奨励しました。もっとも、もっと早くからこうした呼び掛けはあったようで、昭和15年の紀元節(2月11日)、長野市の善光寺は、政府や県の呼びかけと申しわせにより、麦2割以上の混食を実施することにしたとして、檀信徒にも協力するよう呼びかけていました。こちらがそのポスターです。

 前年の昭和14年は干ばつで電力からあらゆるものが不足するなど、既に戦争経済は厳しい局面を迎えていました。長期戦を遂行する体力はそんなに大きくなかったのです。政治も次々と無産政党が弾圧を受ける、反軍演説の斉藤隆夫が衆議院を追放されるなど、不穏な雰囲気が国民の上に漂っていたことでしょう。政府管理のお祭りでガス抜きを図ったと考えるのは容易なことでしょう。

2018年6月10日 記

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2018年06月10日 Posted by 信州戦争資料センター at 00:14収蔵品