昭和19年10月、戦時下最大級の虚報「台湾沖航空戦」の大戦果報道と喜んだ国民のはがき―情報統制で踊らされる危険性
こちら、昭和19年10月20日付朝日新聞の1面です。米軍がいよいよレイテ島へ上陸を開始したニュースの隣に「赫々たり台湾沖航空戦」と、海軍による大勝利の報道が載りました。
「敵兵力の過半壊滅 撃沈破45隻 空母19戦艦4など」と見出しが躍っています。
戦果一覧表を見ると、空母だけでも11隻撃沈となっています。真珠湾どころじゃない、太平洋戦争全期間を通じて最大の戦果です。
社説でも「我等、戦果に続かん」とこの勝利を取り上げ、「一億国民の憤激が凝って滅敵の翼となったものであって、国民を挙げて今次の台湾沖航空戦に参加したるものといっても過言ではないのである」「更に憤激を新たにし…増産に邁進し、今次の大戦果に続かんことを誓うものである」―と盛り上げているます
さて、このニュースを受け取った人たちの反応はどうだったのでしょうか。こちら、長野県埴科郡戸倉町の親戚に宛てた、奈良海軍分遣隊で飛行訓練に取り組んでいた兵士の手紙です。
「嗚呼遂に一億の団結があの戦果を生み出しました。若い血潮の我等の体躯にはいよいよ熱烈な忠君愛国に生きる血潮が湧き出ます」と、大いに士気が高まっているようです。海軍の兵士であることを割り引いても、素直に戦果を受け止めて高ぶったのが正直なところでしょう。
「連合艦隊の最期」には、不時着水したであろう兵士を捜索に出た重巡洋艦那智と足柄の様子が描かれています。壊滅させたはずの米艦隊を発見した両艦は、缶が破れそうなほどの全速力で逃げ帰ったといいます。つまり、当初はこの大誤報を、誰もが信じていたのです。
では、なぜこの誤報が生まれたのか。結局、未熟な兵士による誤認、死んだ兵士に温情をかけた上官、それらの積み重ねが、結局撃沈は1隻もなしという海戦で45隻撃沈破という数字を生んだのです。そして新聞。大本営発表の情報以外、書いてはいけないし詮索も許されなかった。とすると、それを書くしかない。そんな仕事が何年も―日中戦争から数えれば7年も―続いていれば、もはやまひしているでしょう。少ない情報で紙面をうめるとなれば、無意味な修飾語の羅列で飾るしかなかったー。だから今読むと、とてもすかすかの文章なのです。
そして、この紙面で掲載されているレイテの話。米軍が壊滅したならレイテに主力を動かせるという判断で決戦に挑むことになる陸軍。海軍が敗北を隠し通して、その結果、陸軍が万全の米軍にぶつかって壊滅するー。戦時下の情報統制は、組織内の情報に対する第三者の目が介入することを許さないのです。その結果は、それぞれの組織の保身が優先されることになるのです。第三者によるチェックが入らない組織もろさ、今でも学ぶ必要があるのではないでしょうか。
2018年3月31日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
「敵兵力の過半壊滅 撃沈破45隻 空母19戦艦4など」と見出しが躍っています。
戦果一覧表を見ると、空母だけでも11隻撃沈となっています。真珠湾どころじゃない、太平洋戦争全期間を通じて最大の戦果です。
社説でも「我等、戦果に続かん」とこの勝利を取り上げ、「一億国民の憤激が凝って滅敵の翼となったものであって、国民を挙げて今次の台湾沖航空戦に参加したるものといっても過言ではないのである」「更に憤激を新たにし…増産に邁進し、今次の大戦果に続かんことを誓うものである」―と盛り上げているます
さて、このニュースを受け取った人たちの反応はどうだったのでしょうか。こちら、長野県埴科郡戸倉町の親戚に宛てた、奈良海軍分遣隊で飛行訓練に取り組んでいた兵士の手紙です。
「嗚呼遂に一億の団結があの戦果を生み出しました。若い血潮の我等の体躯にはいよいよ熱烈な忠君愛国に生きる血潮が湧き出ます」と、大いに士気が高まっているようです。海軍の兵士であることを割り引いても、素直に戦果を受け止めて高ぶったのが正直なところでしょう。
「連合艦隊の最期」には、不時着水したであろう兵士を捜索に出た重巡洋艦那智と足柄の様子が描かれています。壊滅させたはずの米艦隊を発見した両艦は、缶が破れそうなほどの全速力で逃げ帰ったといいます。つまり、当初はこの大誤報を、誰もが信じていたのです。
では、なぜこの誤報が生まれたのか。結局、未熟な兵士による誤認、死んだ兵士に温情をかけた上官、それらの積み重ねが、結局撃沈は1隻もなしという海戦で45隻撃沈破という数字を生んだのです。そして新聞。大本営発表の情報以外、書いてはいけないし詮索も許されなかった。とすると、それを書くしかない。そんな仕事が何年も―日中戦争から数えれば7年も―続いていれば、もはやまひしているでしょう。少ない情報で紙面をうめるとなれば、無意味な修飾語の羅列で飾るしかなかったー。だから今読むと、とてもすかすかの文章なのです。
そして、この紙面で掲載されているレイテの話。米軍が壊滅したならレイテに主力を動かせるという判断で決戦に挑むことになる陸軍。海軍が敗北を隠し通して、その結果、陸軍が万全の米軍にぶつかって壊滅するー。戦時下の情報統制は、組織内の情報に対する第三者の目が介入することを許さないのです。その結果は、それぞれの組織の保身が優先されることになるのです。第三者によるチェックが入らない組織もろさ、今でも学ぶ必要があるのではないでしょうか。
2018年3月31日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
小さな公文書の積み重ねが歴史を伝えると教える昭和16年の長野県高丘村「参考綴」
収蔵品の中には、役場や学校で作っていた書類の束がいくつもあります。こちらは、太平洋戦争開戦を挟んだ昭和16年から長野県上高井郡高丘村(現・中野市)の役場職員がつくった「参考綴」です。
常会の誓い、軍用保護馬の一覧など、当時の動きを伝えるさまざまな書類が順につづってあります。
そんな中に挟んであった、この1枚の書類「鉄と銅をお国の為に」。
この書類、長野県史近代資料編にも収録してありますが、年代不明となっていました。この参考綴では、「11月分常会協議案」と12月1日付「12月分常会問題」の間にとじてあり、昭和16年11月に長野県から各市町村へ配布されたことが明らかになりました。
昭和16年8月30日、国家総動員法に基づく金属類回収令が公布されます。そして11月には全国一斉の回収運動を行うこととなり、10月28日付信濃毎日新聞には、国から各県へ実施要領が通牒されたとありました。これによって、先の書類はこの全国一斉金属回収運動に合わせて長野県が作ったものであることが分かりました。長野県史編纂時に、県庁で書類が残っていれば年代不明などとならなかったのでしょうが廃棄されたのか、単独でしか手に入らず、年代特定ができなかったのでしょう。
書類作成時には、数ある事務仕事の書類の一つでしょうが、70年も経過すると、こうして歴史の証人になるのです。そしてその前後の書類が証人を支える役割も果たしているのです。あらゆる文書は国民の財産であり、国家の歴史であることは、このわずかな一例を見ても明らかです。書類の改ざんや廃棄など、もってのほか。後世の人に申し訳ができません。
そして国の組織的な書類廃棄の嵐は、戦争に参加した人の記録にも容赦なく降りかかりました。消された書類には、こんなものも交じっていたことでしょう。
保身のため、前線で命を落とした人の記録も消していく。これが、書類を廃棄する政治の真の姿でした。それを忘れてはいけません。
2018年3月29日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
常会の誓い、軍用保護馬の一覧など、当時の動きを伝えるさまざまな書類が順につづってあります。
そんな中に挟んであった、この1枚の書類「鉄と銅をお国の為に」。
この書類、長野県史近代資料編にも収録してありますが、年代不明となっていました。この参考綴では、「11月分常会協議案」と12月1日付「12月分常会問題」の間にとじてあり、昭和16年11月に長野県から各市町村へ配布されたことが明らかになりました。
昭和16年8月30日、国家総動員法に基づく金属類回収令が公布されます。そして11月には全国一斉の回収運動を行うこととなり、10月28日付信濃毎日新聞には、国から各県へ実施要領が通牒されたとありました。これによって、先の書類はこの全国一斉金属回収運動に合わせて長野県が作ったものであることが分かりました。長野県史編纂時に、県庁で書類が残っていれば年代不明などとならなかったのでしょうが廃棄されたのか、単独でしか手に入らず、年代特定ができなかったのでしょう。
書類作成時には、数ある事務仕事の書類の一つでしょうが、70年も経過すると、こうして歴史の証人になるのです。そしてその前後の書類が証人を支える役割も果たしているのです。あらゆる文書は国民の財産であり、国家の歴史であることは、このわずかな一例を見ても明らかです。書類の改ざんや廃棄など、もってのほか。後世の人に申し訳ができません。
そして国の組織的な書類廃棄の嵐は、戦争に参加した人の記録にも容赦なく降りかかりました。消された書類には、こんなものも交じっていたことでしょう。
保身のため、前線で命を落とした人の記録も消していく。これが、書類を廃棄する政治の真の姿でした。それを忘れてはいけません。
2018年3月29日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
昭和10年ごろ、長野県飯山町で「時局極めて重大なとき」に当たって開いた衛生大展覧会の目玉は約70キロの「大キンタマ」
「非常時に備ふる国民の保健擁護」と強調された「下水内郡連合衛生大展覧会」のチラシです。「非常時」という言葉がよく使われた昭和10年前後の催しと推定されます。
お産、育児、病気のことがクワシクわかるという触れ込み。大日本衛生普及会主催で、長野県や飯山町の警察署、役場などが後援しています。
「今や我国内外の時局極めて重大なるときに当たり、協力一致国民の健康増進に一路邁進しもって保健報国の実を挙げ君国に奉ずるこそ刻下の急務なりと思料しここに衛生展覧会を開催す」ー。いやあ、健康や衛生意識の普及にまで「時局重大」「協力一致」「保健報国」で「君国に奉ずる」とか、権威に頼りすぎでしょ。もっとこう、一人ひとりに自主的な健康増進を呼び掛けることはできないものかと思ってしまいます。これだけ高い理想をぶち上げたなら、きっと高邁な内容なんでしょう。
会場には、妊娠出産や「内臓と酒害」、「性病(花柳病)」といった「精巧なる模型」に加え、各地の病院から集めた実物や写真の展示があるようです。
トップは「十八貫目の大陰嚢(キンタマ)」 鹿児島市は赤星病院からの実物展示で、実に重さ約70キロ、フィラリア病による「大キンタマ」をまっさきに掲げました。胎児の標本とか乳がんと子宮がんとか、まずまずまともなものもありますが、とにかく「大キンタマ」が目玉です。
ほかにも、乳首が4つある女性の写真とか、なんか、怖いもの見たさに来てくださいーという感がありありとしまして、これで「君国に奉ずる」とか、ちょっとないかなと。会費も大人10銭とかありますし。国家的事業の雰囲気を漂わせる言葉を躍らせとけばいいんだという、一種甘えのようなものがありありと感じられてしまうのです。
2018年3月27日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
お産、育児、病気のことがクワシクわかるという触れ込み。大日本衛生普及会主催で、長野県や飯山町の警察署、役場などが後援しています。
「今や我国内外の時局極めて重大なるときに当たり、協力一致国民の健康増進に一路邁進しもって保健報国の実を挙げ君国に奉ずるこそ刻下の急務なりと思料しここに衛生展覧会を開催す」ー。いやあ、健康や衛生意識の普及にまで「時局重大」「協力一致」「保健報国」で「君国に奉ずる」とか、権威に頼りすぎでしょ。もっとこう、一人ひとりに自主的な健康増進を呼び掛けることはできないものかと思ってしまいます。これだけ高い理想をぶち上げたなら、きっと高邁な内容なんでしょう。
会場には、妊娠出産や「内臓と酒害」、「性病(花柳病)」といった「精巧なる模型」に加え、各地の病院から集めた実物や写真の展示があるようです。
トップは「十八貫目の大陰嚢(キンタマ)」 鹿児島市は赤星病院からの実物展示で、実に重さ約70キロ、フィラリア病による「大キンタマ」をまっさきに掲げました。胎児の標本とか乳がんと子宮がんとか、まずまずまともなものもありますが、とにかく「大キンタマ」が目玉です。
ほかにも、乳首が4つある女性の写真とか、なんか、怖いもの見たさに来てくださいーという感がありありとしまして、これで「君国に奉ずる」とか、ちょっとないかなと。会費も大人10銭とかありますし。国家的事業の雰囲気を漂わせる言葉を躍らせとけばいいんだという、一種甘えのようなものがありありと感じられてしまうのです。
2018年3月27日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
昭和18年に長野県発行の出産育児本は性知識の記述なし―今も性教育に反対する声は女が男の所有物感覚だった戦前の延長か
子供にいつ性教育を行うか―という親や教育現場の悩みと関係なく、現在もまだ性教育自体を嫌悪する向きがあるようです。その根底に流れる意識を探りたいと、戦時下の公的な妊娠出産本をひもといてみました。
こちらは、財団法人長野県社会事業協会編纂、長野県兵事厚生課が昭和18年8月25日に発行した「子宝宝典」。既に紙が不足してきた中で、331ページの大作をまとめたところに力の入れ具合がうかがえます。
序文に「国の発展するか否かは健全なる子供の量及び質によるのでありまして大和民族の悠久なる発展を期するためには立派な子供を沢山つくることであります」とあり、戦時下の「生めよ殖やせよ」の雰囲気をよく伝えています。子供=国力、なのです。さて、次にかかげますのは、本書の目次です。
第1編「母の巻」の第1章「結婚」では、結婚は民族発展のためで「結婚したら優秀なる子供をもうけることに専念せばならないし、之は非常に大切な御奉公」として、結婚子育てはもはや個人の領域、家の領域すら超えています。そして遺伝の話を持ち出し、優秀な子孫を残す優生思想を説きます。
そうした心構えに続く第2章が「妊娠」です。ところが、いきなり第1節「妊娠の為に起る体の変化」―。性行為を含む受胎行為の部分をすっとばしています。そもそも、月経周期の話とかも出てきません。「わかってるんだろ」といわんばかりの編集です。そして一気に出産まで。「母の巻」はわずか30ページ。残りはひたすら、子育ての話で終わりです。
当時、性知識はどうやって得ていたのでしょう。若い女子や男子ごとの集まりがあり、そこで猥談のように話されたのでしょうか。家庭内の行為をなんとなく見聞きして知ったのでしょうか。あるいは遊郭で遊んで、ということでしょうか。いずれにしても、きちんと学ぶ機会はなかったでしょう。戦前の雑誌「主婦之友」をざっと見ても、やはり結婚までと子育てと、受胎関連を飛ばしてふれないようにしているのは変わりません。
一方、こちらは少し時代が昔のものですが、大正12年9月2日付信濃毎日新聞夕刊にあった本の広告です。
「いかがわしき猥雑書と同一視せられざらんこと」とありますが、性の知識はこうした雰囲気で語るもの―というのが明らかです。すぐ近くにもこんな広告が。
ようするに、性教育をしていなければ、こうした「猥雑書」や「猥談」「遊郭」からの知識しかないまま、結婚することになるのです。これらは、基本的に男目線の情報でしょう。
現在も戦前も、日本における性教育環境は意識しない限り、あまり変わらないようです。戦後、人口増加が社会問題となって産児制限や家族計画が語られるのですが、その調節は昭和23年に成立した優生保護法(現・母体保護法)による中絶が頼りの状況に(優生保護法そのものは戦時下の国民優生法の精神も引きずっており、ほめられはしませんが)。現代では当時に比べ数こそ少なくなりましたが、中絶に頼る産児調節は続いています。性知識の欠如や無関心のしわ寄せが、最終的に女性にかぶせられているといっていいでしょう。
性教育を通して互いの体を知り、命をはぐくむことの大切さを知るからこそ、双方を大切にし、興味本位の行為から距離を置くことが可能になるのではないでしょうか。男性にとっては、そこから女性の体を気遣うこと、子供を含めた家庭は二人で育てていくこと、つまり、女性を対等のパートナーとみる意識が育つと思うのです。
男は性行為するだけ、妊娠するかどうかも考えず後は女性まかせ―といった身勝手な意識。女は男の言うとおりにしておればいいんだという、戦前の女性を男性の所有物とみなしていた時代の感覚が、今も残っているのでしょうか。これが性教育の、ひいてはよりよい男女関係を築く上での障害になっているように思えます。昭和18年の「子宝宝典」が女性を子供の生産道具視していた感覚に、一人ひとりが違和感を感じてもらえるなら、それを乗り越える道は遠くないと思います。
2018年3月25日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
こちらは、財団法人長野県社会事業協会編纂、長野県兵事厚生課が昭和18年8月25日に発行した「子宝宝典」。既に紙が不足してきた中で、331ページの大作をまとめたところに力の入れ具合がうかがえます。
序文に「国の発展するか否かは健全なる子供の量及び質によるのでありまして大和民族の悠久なる発展を期するためには立派な子供を沢山つくることであります」とあり、戦時下の「生めよ殖やせよ」の雰囲気をよく伝えています。子供=国力、なのです。さて、次にかかげますのは、本書の目次です。
第1編「母の巻」の第1章「結婚」では、結婚は民族発展のためで「結婚したら優秀なる子供をもうけることに専念せばならないし、之は非常に大切な御奉公」として、結婚子育てはもはや個人の領域、家の領域すら超えています。そして遺伝の話を持ち出し、優秀な子孫を残す優生思想を説きます。
そうした心構えに続く第2章が「妊娠」です。ところが、いきなり第1節「妊娠の為に起る体の変化」―。性行為を含む受胎行為の部分をすっとばしています。そもそも、月経周期の話とかも出てきません。「わかってるんだろ」といわんばかりの編集です。そして一気に出産まで。「母の巻」はわずか30ページ。残りはひたすら、子育ての話で終わりです。
当時、性知識はどうやって得ていたのでしょう。若い女子や男子ごとの集まりがあり、そこで猥談のように話されたのでしょうか。家庭内の行為をなんとなく見聞きして知ったのでしょうか。あるいは遊郭で遊んで、ということでしょうか。いずれにしても、きちんと学ぶ機会はなかったでしょう。戦前の雑誌「主婦之友」をざっと見ても、やはり結婚までと子育てと、受胎関連を飛ばしてふれないようにしているのは変わりません。
一方、こちらは少し時代が昔のものですが、大正12年9月2日付信濃毎日新聞夕刊にあった本の広告です。
「いかがわしき猥雑書と同一視せられざらんこと」とありますが、性の知識はこうした雰囲気で語るもの―というのが明らかです。すぐ近くにもこんな広告が。
ようするに、性教育をしていなければ、こうした「猥雑書」や「猥談」「遊郭」からの知識しかないまま、結婚することになるのです。これらは、基本的に男目線の情報でしょう。
現在も戦前も、日本における性教育環境は意識しない限り、あまり変わらないようです。戦後、人口増加が社会問題となって産児制限や家族計画が語られるのですが、その調節は昭和23年に成立した優生保護法(現・母体保護法)による中絶が頼りの状況に(優生保護法そのものは戦時下の国民優生法の精神も引きずっており、ほめられはしませんが)。現代では当時に比べ数こそ少なくなりましたが、中絶に頼る産児調節は続いています。性知識の欠如や無関心のしわ寄せが、最終的に女性にかぶせられているといっていいでしょう。
性教育を通して互いの体を知り、命をはぐくむことの大切さを知るからこそ、双方を大切にし、興味本位の行為から距離を置くことが可能になるのではないでしょうか。男性にとっては、そこから女性の体を気遣うこと、子供を含めた家庭は二人で育てていくこと、つまり、女性を対等のパートナーとみる意識が育つと思うのです。
男は性行為するだけ、妊娠するかどうかも考えず後は女性まかせ―といった身勝手な意識。女は男の言うとおりにしておればいいんだという、戦前の女性を男性の所有物とみなしていた時代の感覚が、今も残っているのでしょうか。これが性教育の、ひいてはよりよい男女関係を築く上での障害になっているように思えます。昭和18年の「子宝宝典」が女性を子供の生産道具視していた感覚に、一人ひとりが違和感を感じてもらえるなら、それを乗り越える道は遠くないと思います。
2018年3月25日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
戦争は弾が飛びかい殺し合うことだという基本をカラーで実感しよう #ニューラルネットワークによる自動色付け
満州事変当時、長野県から満州に出動した松本歩兵第50連隊の兵士のアルバムから、戦場の様子を伝える写真を色付けしてみました。
作戦行動中、疲れて眠る兵士たちです。当時、現役の精兵ばかりでしたが、こうした情景になります。こちらが元写真。
こちら、銃弾が命中した鉄兜や装備が並べられています。死者名簿にある名前ではなかったのですが、違う部隊の兵士の可能性もあるし、死亡した兵士のものか負傷した兵士のものか判然としません。
こちらが元写真です。
弾痕が付いた鉄兜を手にする兵士。頭部を負傷しており、鉄兜のおかげで命をとりとめた様子です。
こちらが元写真です。
こちら、弾痕のある鉄兜と、銃弾に貫かれたらしい日の丸です。
こちらが元写真です。
こんな銃弾が飛び交うのです。命が残るかどうかは紙一重です。それが戦場なのです。
そんな場所へ兵士を送り込む為政者に、どれほどの責任があるか。戦闘の回避に全力をかけるのが絶対であり、それ以外の選択肢を安易に想定するべきではないでしょう。簡単に「お国のために」といえるものではないと思います。
2018年3月22日 記
2019年1月11日 追記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、首都大学東京准教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
※他の自動色付け写真はこちらの一覧からごらんください。

作戦行動中、疲れて眠る兵士たちです。当時、現役の精兵ばかりでしたが、こうした情景になります。こちらが元写真。

こちら、銃弾が命中した鉄兜や装備が並べられています。死者名簿にある名前ではなかったのですが、違う部隊の兵士の可能性もあるし、死亡した兵士のものか負傷した兵士のものか判然としません。

こちらが元写真です。

弾痕が付いた鉄兜を手にする兵士。頭部を負傷しており、鉄兜のおかげで命をとりとめた様子です。

こちらが元写真です。

こちら、弾痕のある鉄兜と、銃弾に貫かれたらしい日の丸です。

こちらが元写真です。

こんな銃弾が飛び交うのです。命が残るかどうかは紙一重です。それが戦場なのです。
そんな場所へ兵士を送り込む為政者に、どれほどの責任があるか。戦闘の回避に全力をかけるのが絶対であり、それ以外の選択肢を安易に想定するべきではないでしょう。簡単に「お国のために」といえるものではないと思います。
2018年3月22日 記
2019年1月11日 追記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、首都大学東京准教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
※他の自動色付け写真はこちらの一覧からごらんください。
昭和17年の小県蚕業学校。兵役のための体力充実狙う「体力章検定」をカラーで #ニューラルネットワークによる自動色付け
体力章検定とは、男子青少年の基礎的体力充実のために昭和14年から始まりました。対象は15歳から25歳までの男子で、100メートル走、2000メートル走、走り幅跳び、手榴弾投げ、運搬、懸垂の6種目で採点し、すべての種目で一定の基準を超えた場合、初級、中級、上級の体力章(バッジ)が授与されました。実施については自治体主催の検定のほか、中等学校や青年学校では学校単位に検定をしました。ちなみに、女子にも一部種目を変えて昭和18年から実施することになりました(詳細はこちら)。
競技の順番は100メートル走、懸垂、手榴弾投げ、走り幅跳びは班ごとに分かれて行い、5番目に運搬、最後に2000メートル走、となっていました。こちらは、100メートル走です。
こちらが元写真です。標準記録は初級16秒、中級15秒、上級14秒。
こちらが懸垂です。ひじが伸びた状態から顎が鉄棒を超えるまで、ひじはまたしっかり伸ばす、は今と変わりません。
こちらが元写真です。初級5回、中級9回、上級12回でした。
手榴弾投げは、540グラムの規格手榴弾を使いました。足元の線を越えないように投げ、助走はしてもよく、2回投げてよい方の成績としました。
こちらが元写真。初級35メートル、中級40メートル、上級45メートル。これが、もっとも軍隊の基礎訓練らしいですね。今でもハンドボール投げとかやっているのは、このなごりでしょうか。
こちらは走り幅跳び。一連の写真は卒業アルバム製作委員が撮影しており、とても躍動感のあるいい写真ばかりです。おかげで、色付けによる効果が一層高まっています。
こちらが元写真。初級4メートル、中級4メートル50、上級4メートル80でした。
こちらが重量運搬。どの級も50メートル15秒が標準。運ぶ俵の重さで級が変わります。初級40キロ、中級50キロ、上級60キロでした。
こちらが元写真です。色付け効果は緑やわらの黄色がよく出ているようです。
こちらが2000メートル走。初級9分、中級8分、上級7分30秒でした。
こちらが元写真。自転車が併走しているのが面白いです。最後でもあり、笑顔があふれているようです。
いずれにしても、若者たちの息吹が伝わる、貴重な記録です。戦争さえなければ、ですが。
2018年3月21日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、首都大学東京准教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
※他の自動色付け写真はこちらの一覧からごらんください。
競技の順番は100メートル走、懸垂、手榴弾投げ、走り幅跳びは班ごとに分かれて行い、5番目に運搬、最後に2000メートル走、となっていました。こちらは、100メートル走です。

こちらが元写真です。標準記録は初級16秒、中級15秒、上級14秒。

こちらが懸垂です。ひじが伸びた状態から顎が鉄棒を超えるまで、ひじはまたしっかり伸ばす、は今と変わりません。

こちらが元写真です。初級5回、中級9回、上級12回でした。

手榴弾投げは、540グラムの規格手榴弾を使いました。足元の線を越えないように投げ、助走はしてもよく、2回投げてよい方の成績としました。

こちらが元写真。初級35メートル、中級40メートル、上級45メートル。これが、もっとも軍隊の基礎訓練らしいですね。今でもハンドボール投げとかやっているのは、このなごりでしょうか。

こちらは走り幅跳び。一連の写真は卒業アルバム製作委員が撮影しており、とても躍動感のあるいい写真ばかりです。おかげで、色付けによる効果が一層高まっています。

こちらが元写真。初級4メートル、中級4メートル50、上級4メートル80でした。

こちらが重量運搬。どの級も50メートル15秒が標準。運ぶ俵の重さで級が変わります。初級40キロ、中級50キロ、上級60キロでした。

こちらが元写真です。色付け効果は緑やわらの黄色がよく出ているようです。

こちらが2000メートル走。初級9分、中級8分、上級7分30秒でした。

こちらが元写真。自転車が併走しているのが面白いです。最後でもあり、笑顔があふれているようです。

いずれにしても、若者たちの息吹が伝わる、貴重な記録です。戦争さえなければ、ですが。
2018年3月21日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、首都大学東京准教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
※他の自動色付け写真はこちらの一覧からごらんください。
戦時下、神社のお札も木型で量産していました
こちら、お札「御嶽神社出征軍人玉除祈祷守護」の印刷用木型です。
御嶽神社といえば長野県の御嶽山のところにあるのが中心です。
こうした木型があったということは、それなりの需要があったということを示しています。軍隊を支えるには、こうした複合的な支えが必要なのでしょう。もちろん、商魂、というものもあったでしょうが。
こちらは、同時に仕入れた木型です。「御嶽神社蚕安全正嫁成就祈祷璽」とあります。おそらく、養蚕関連と結婚関連を同時にお願いするお札用でしょう。
これ、真ん中のところを裏返せるようになっています。「家内安全当病平癒」とあり、安全と病気の両方に効くというものも印刷できたようです。
稲荷神社と彫った板を再利用しており、神社の依頼を受けた業者が作っていたものだったようです。
2018年3月20日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
御嶽神社といえば長野県の御嶽山のところにあるのが中心です。
こうした木型があったということは、それなりの需要があったということを示しています。軍隊を支えるには、こうした複合的な支えが必要なのでしょう。もちろん、商魂、というものもあったでしょうが。
こちらは、同時に仕入れた木型です。「御嶽神社蚕安全正嫁成就祈祷璽」とあります。おそらく、養蚕関連と結婚関連を同時にお願いするお札用でしょう。
これ、真ん中のところを裏返せるようになっています。「家内安全当病平癒」とあり、安全と病気の両方に効くというものも印刷できたようです。
稲荷神社と彫った板を再利用しており、神社の依頼を受けた業者が作っていたものだったようです。
2018年3月20日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
戦前のお菓子の木型、もちろん軍国推進諸行事向けもありました
お菓子の木型、もちろん花鳥風月や野菜などいろんなものがあるのですが、信州戦争資料センターとしては、やはり軍事がらみを集めてしまいます。こちらは、長野県八幡村の菓子店が使っていた大きな木型です。
戦前、軍神をまつった八幡神社で12月に大頭祭という派手なまつりがあり、そこで人を呼ぶときに作ってふるまったものです。
こちらは、飯山地方の菓子店にあった「天長節」の菓子型です。
わくをはめるとこんな感じです。木を有効利用するデザインがいいです。
こちらは、紀元節の木型。わくはないので、うすい落雁にしたのかと思われます。文字だけではなく、旗も入れているのが芸が細かいです。
天長節もあります。ちょっと和菓子屋さんにお願いして再現してみようかなーと思ったりしています。
まあ、子供にしてみれば、お菓子に何が書いてあろうとも「お菓子をもらえる日」という以上の意味はなかったでしょうけど。
2018年3月19日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
戦前、軍神をまつった八幡神社で12月に大頭祭という派手なまつりがあり、そこで人を呼ぶときに作ってふるまったものです。
こちらは、飯山地方の菓子店にあった「天長節」の菓子型です。
わくをはめるとこんな感じです。木を有効利用するデザインがいいです。
こちらは、紀元節の木型。わくはないので、うすい落雁にしたのかと思われます。文字だけではなく、旗も入れているのが芸が細かいです。
天長節もあります。ちょっと和菓子屋さんにお願いして再現してみようかなーと思ったりしています。
まあ、子供にしてみれば、お菓子に何が書いてあろうとも「お菓子をもらえる日」という以上の意味はなかったでしょうけど。
2018年3月19日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
戦前のお菓子の木型発掘―軍事関連で需要は手堅かったとみられる「凱旋らくがん」と「武運長久」
こちらは、長野市の古道具屋さんでみつけた落雁用の木型です。飯山地方とみられる長野県の北部の菓子店で使ったとみられるものです。
下の木型に上の木型を重ねて、材料を練り込んで落雁にしたのでしょう。文字は「凱」と「旋」。すなわち、出征兵士が無事帰還した「凱旋」時に作って近所に配ったものとみられます。こちらが「凱」。陸軍の象徴の星型と組み合わせてあります。
こちらが「旋」。2個一組ですから、おそらく紅白で作って配ったのではないでしょうか。喜びにあふれていて、帰ってきてよかったという思いがこもります。
上下を組み合わせて…
こんな感じで、下がすぼまった形になります。
こちらは「武運長久」。おそらくこれに合う型枠があり、四角い大きな落雁にしたてたのでしょう。「武運長久」ですから、出征前の兵士の壮行で登場したものと思われます。この菓子を前にした出征兵士の思い、いかばかりでしょうか。
最近は、こうした木型をつくる職人さんも少なくなっているといい、そういう意味でも貴重かもしれません。わたしが幼少のころ、大きな鯛のカラフルな落雁をお祝いにもらい、少しずつ切り取って食べたのを覚えています。外側はすこしぱさつき、内側は焼き菓子のあんこのようで、とてもおいしかったのを覚えています。そんな豪勢な品ではなかったとは思いますが、貴重な砂糖をふんだんに使う落雁には、せめてこの場だけでもと力を入れた人たちの思いがこもっているようです。
2018年3月18日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
下の木型に上の木型を重ねて、材料を練り込んで落雁にしたのでしょう。文字は「凱」と「旋」。すなわち、出征兵士が無事帰還した「凱旋」時に作って近所に配ったものとみられます。こちらが「凱」。陸軍の象徴の星型と組み合わせてあります。
こちらが「旋」。2個一組ですから、おそらく紅白で作って配ったのではないでしょうか。喜びにあふれていて、帰ってきてよかったという思いがこもります。
上下を組み合わせて…
こんな感じで、下がすぼまった形になります。
こちらは「武運長久」。おそらくこれに合う型枠があり、四角い大きな落雁にしたてたのでしょう。「武運長久」ですから、出征前の兵士の壮行で登場したものと思われます。この菓子を前にした出征兵士の思い、いかばかりでしょうか。
最近は、こうした木型をつくる職人さんも少なくなっているといい、そういう意味でも貴重かもしれません。わたしが幼少のころ、大きな鯛のカラフルな落雁をお祝いにもらい、少しずつ切り取って食べたのを覚えています。外側はすこしぱさつき、内側は焼き菓子のあんこのようで、とてもおいしかったのを覚えています。そんな豪勢な品ではなかったとは思いますが、貴重な砂糖をふんだんに使う落雁には、せめてこの場だけでもと力を入れた人たちの思いがこもっているようです。
2018年3月18日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
戦時下、英米への敵愾心をあおるためとして洋風の雑誌名が日本風に改題―アメリカでは日本語熱
信州戦争資料センター所蔵の週刊誌「サンデー毎日」を見ると、昭和18年1月3日号は「サンデー毎日」ですが、3月21日号は「週刊毎日」になっています。題名の変更は、内務省などによる昭和18年1月13日の米英音楽演奏禁止リスト発表をきっかけに始まった英米語追放の影響です。「外国かぶれ」としてゴールデンバットが金鵄になるなどした昭和15年の取り組みより、「敵性語」としてさらに徹底していました。
1月から3月にかけてさまざまな分野で改名が相次ぎ、雑誌では「ユーモアクラブ」が
「明朗」に
「キング」が
「富士」、といった具合に。
少しでも雰囲気を残す題名を工夫しています。
スポーツの用語も「ホッケー」が「杖球」、「レスリング」が「重技」になります。アイスホッケーは「氷球」でした。では「辛味入汁掛飯」は? 答えは「カレーライス」。禁止されたジャズレコードを一掃するため警察が飲食店を回ったという昭和18年の信濃毎日新聞記事では「音盤数十枚」と、「レコード」の書き換えをしてありました。
一方のアメリカでは、戦争を受けて日本語や日本文化を積極的に学んでいたといいます。日本語学科がいきなり学生であふれたとか。
さて、雑誌の改題はとどまるところをしりません。「婦人画報」は昭和19年5月号から
「戦時女性」に。写真の本は昭和20年6月号です。
空襲で編集部を東京から長野県の中野市に移してつくったものです。ここまでくると、英米語を追放した担当者が、ほかに何かしないと職務怠慢だとして仕事を探した結果としか思えません。まるで特高警察が共産主義者を壊滅させたら次は自由主義者も、と弾圧したようなものです。規制はエスカレートするのです。
2018年3月17日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
1月から3月にかけてさまざまな分野で改名が相次ぎ、雑誌では「ユーモアクラブ」が
「明朗」に
「キング」が
「富士」、といった具合に。
少しでも雰囲気を残す題名を工夫しています。
スポーツの用語も「ホッケー」が「杖球」、「レスリング」が「重技」になります。アイスホッケーは「氷球」でした。では「辛味入汁掛飯」は? 答えは「カレーライス」。禁止されたジャズレコードを一掃するため警察が飲食店を回ったという昭和18年の信濃毎日新聞記事では「音盤数十枚」と、「レコード」の書き換えをしてありました。
一方のアメリカでは、戦争を受けて日本語や日本文化を積極的に学んでいたといいます。日本語学科がいきなり学生であふれたとか。
さて、雑誌の改題はとどまるところをしりません。「婦人画報」は昭和19年5月号から
「戦時女性」に。写真の本は昭和20年6月号です。
空襲で編集部を東京から長野県の中野市に移してつくったものです。ここまでくると、英米語を追放した担当者が、ほかに何かしないと職務怠慢だとして仕事を探した結果としか思えません。まるで特高警察が共産主義者を壊滅させたら次は自由主義者も、と弾圧したようなものです。規制はエスカレートするのです。
2018年3月17日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。