戦時下の行政や関連団体が出したチラシ、ポスターは標語や報国の繰り返しと勢いで

 長野市で2018年3月3-4日に開く「全国ボランティアコーディネーター研究集会2018」の分科会で使うパネルの作成を続けています。本日は行政や大政翼賛会などその関連団体の資料をまとめました。

 1枚は、大政翼賛会のポスター3枚と防諜標語のステッカー。誰にも批判できないような内容の文章からさりげなく増産をアピールしたり、文字の勢いで理屈ではなく視覚で訴えたり。

 75調など、くちずさみやすい工夫があります。

 もう1枚は、「国民精神総動員」や「報国」といった慣用句をちりばめたものを中心にしてあります。政府の広報「写真週報」は、写真と文字のインパクトがよく、プロパガンダとはこういうものかと感じさせられます。

 昭和13年2月・計量報国(長野県度量衡)、国民精神総動員―ネオンや装飾灯はやめることになりました(名古屋逓信局、長野県)、標語ステッカー―国民精神総動員・尽忠報国(長野県)、昭和14年・消灯報国―夜寝る時には電気を消しましょう(松本警察署、芳川村役場)、縄・むしろ・かます・増産報国(農林省)、昭和16年末・部落会町内会回覧―ラジオの十分な利用を(大政翼賛会長野県支部)、写真週報・昭和19年7月5日号―勝て勝て勝つんだ(情報局)、の計7点

 ならべてみますと、やはり標語による統一感が感じられます。中身はなんでもいいから「報国」「国民精神総動員」とつけている。それだけに、標語だけ浮いているようなものもあります。ただ、プロパガンダとして力を入れたものは出来栄えがよく、こうしたものに日常が囲まれていたらどうなっているか、と考えさせられます。

2018年2月28日 記

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2018年02月28日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:10イベント報告

戦時下の雰囲気を盛り上げた民間の広告類―抜け道探しと便乗と

 長野市で2018年3月3-4日に開く「全国ボランティアコーディネーター研究集会2018」の分科会で使うパネルの作成を続けています。戦時下の情報媒体のうち、本日は民間の広告類を2枚のパネルにまとめました。

 1枚目。右肩の派手なチラシは、昭和10年ごろの長野県鬼無里村(現・長野市)にあった恵比寿屋の引き札です。

 ほかに、日中戦争当時の信州銀行の愛国定期預金チラシ、昭和14年の八十二銀行パンフ(一億一心百億貯蓄の懸垂幕を描いた社屋)、昭和17年の安田生命チラシ(空襲なんぞ恐るべき)、昭和15年の上田漢口ニュース(スキーと兵隊)、日中戦争当時の飯田市の菓子店「長寿堂」のチラシ(製菓奉国 出征兵士の慰問は大奉仕)、昭和13年のライオン歯磨きのラジオ体操参加表(健康報国 国民精神総動員)、昭和17年末―昭和18年ごろの薬の広告(標語 今日も決戦、明日も決戦)、の計8点。

 2枚目。「トイシも兵器だ!」のキャッチコピーが躍る広告ポスターを据えました。

 ほかに、昭和16年3月の薬の販促カレンダー(上諏訪町の薬局 健康報国)、日中戦争当時の長野電鉄のチラシ(銃後は強く朗らかに 武運長久祈願に)、日中戦争当時の菅平高原のスキー宣伝チラシ(すぐに役立つ銃後のスポーツ)、昭和12年9月のわかもと報国特売(空き箱回収で弾丸献納)、安田銀行長野支店の昭和11年と17年の案内パンフ、の計7点。

 これらが街中に出回っていたらと考えると、どうでしょう。いやでも戦争に協力する雰囲気が高まってくるのではないでしょうか。そこまでいかなくても、常に戦争のことが意識される生活になるでしょう。

 そして「愛国」「報国」「銃後」といったキーワードが巧みに取り込まれて、宣伝に使われています。売り込みの手段ではありますが、こうした言葉が目から意識へとすり込まれていったことでしょう。気を付けねばならないのは、これらがすべて民間の自主的な取り組みであったということです。

2018年2月27日 記

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2018年02月27日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:10イベント報告

戦前の情報伝達媒体の主役、新聞はいかに統制されていったか

 2018年3月4日に長野市で開く全国ボランティアコーディネーター研究集会分科会で、戦時下の情報をテーマに事例発表します。きょうから説明用のパネルの準備に入りました。大きく新聞、広告、ポスターの3分野でパネルを用意します。本日は、新聞で3枚のパネルを用意しました。こちらは、明治や満州事変当時の資料です。

 昭和6年9月20日付東京日日新聞号外(満州事変勃発直後)、昭和7年2月22日付読売新聞号外(上海事変の最前線)、昭和12年10月16日の時局大講演会チラシ(伊那谷の新聞販売店)、明治37年9月4日付諏訪新聞号外(日露戦争)の5点。こちらでは、新聞社の戦時の速報合戦、販売拡張といった取り組みを説明します。戦争という大事件が発生すると、庶民が求める情報を提供しようと、戦時情報収集に全力をあげる雰囲気を感じてもらいます。

 2枚目のパネルは、新聞統合の流れです。新聞は内容もいろいろ制約を受けていましたが、用紙が戦略物資として配給統制になったのが痛手でした。紙を配ってもらわないことには、新聞が作れません。そして政府や軍にとっても、情報のプラットホームは少ない方が統制しやすいのです。最初は許認可権限を振りかざして、そして新聞業界の自主的な行動という形をとって、統制が進みます。

 昭和13年12月12日付松本新聞(第1次新聞統合で消滅)、昭和14年10月1日の第1次新聞統合で廃刊となった松本市内の日刊紙の題字をまとめたはがき、昭和15年4月5日付中信毎日新聞(昭和17年3月の第2次新聞統合で消滅)、昭和16年11月の新聞共同販売所設置告知(紙の配給統制受け販売競争中止)、昭和20年8月12日付信濃毎日新聞(昭和20年4月20日からの持分合同により長野県内は信濃毎日1紙に)の5点。報道内容の規制と同時に新聞の廃刊を推し進め、政府の意向がより徹底して伝わるようにしていきます。

 3枚目のパネルは、長野県内の各地で青年グループが発行していた「時報」です。基本的に月刊で、町村の広報代わりにもなっていたものです。早いものは明治時代に発行されています。時代と共に内容が政策よりになっていき、最終的に、言論統制を狙う政府によりすべて昭和15年10月末で廃刊となります。

 昭和6年8月10日付東内時報、昭和11年7月5日付篠ノ井町報、昭和13年8月15日付本原時報、昭和15年4月5日付和むら追悼号、の4点。廃刊となったのは145の時報・町村報、60の雑誌だったといいます。資源愛護、言論統制、防諜、無駄排除といったところが表向きの理由でした。

 新聞の報道の背景に、どんな力が働いていたか、どんな内容になっていったか、特に満州事変から敗戦までの動きをお伝えし、何かを感じていただきたいと思っています。

2018年2月26日 記

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2018年02月26日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:58イベント報告

長野市で開く全国ボランティアコーディネーター研究集会分科会で、戦時下の情報をテーマに事例発表します

 長野市で2018年3月3-4日に開く「全国ボランティアコーディネーター研究集会2018」の分科会で、信州戦争資料センターが事例紹介に協力させていただくことになりました。

 分科会の「伝える」分野、「知らぬ間に、誘導してしまっているかもしれない、これでいいのか、あなたのコーディネーション」がテーマ。戦時下の情報伝達媒体を使って考える、コーディネーションのあり方―となっております。

 本日、関係者と打ち合わせをしてまいりまして、まじめな論議から雑談やらネタの披露やらをして、方向性を固めてきました。戦時下に人々を動かしたのは、当時のいろんな立場の人々や団体から出された情報と、それによって生まれた世論だったと思います。そこで、所蔵品から新聞、ポスター、チラシを軸にして紹介することとしました。こちらは、そのうちの一つ、長野電鉄のチラシです。

 日中戦争当時のもの。「朗らかに」「明るく」といった表現が入るのがこのころのはやりです。言われたから朗らかになるというものではありませんが。

 「武運長久」のためにお出かけをと、戦争にひっかけてのPRです。

 長野電鉄にしてみれば、戦時下の雰囲気に乗って作ったチラシでしかありません。しかし、こうした時流に乗った情報伝達媒体の数々が、世論の雰囲気づくりの一翼を担ったのは間違いないでしょう。

 さらに、情報の伝達には政府や軍部のさまざまな誘導や干渉がありました。資料を並べて初めて分かる、そんなさまざまな時代の背景をお伝えしたいと思います。そこから、現代での活動に少しでも役立てられる情報を持ち帰っていただければうれしいです。既に参加は締め切っており一般公開ではありませんが、当日に用いる収蔵品を紹介して、その一端をお知らせしたいと思います。(2018年3月9日更新)

新聞社の戦時報道競争と新聞に見る情報伝達媒体への統制
戦時下の広告―「愛国」「報国」「銃後」といった言葉が取り込まれ、すり込まれる
戦時下の行政や関連団体のポスター、チラシ 標語が浮いている駄作からプロパガンダの名作まで
戦時下に国の指導や用紙の統制で変貌していった婦人雑誌
戦時下のポスターから見える戦況の悪化 双六にはオリジナルキャラクターで浸透も現代と同じ
分科会の様子 戦時資料から現代のボランティアコーディネートを考える

展示した戦時資料一覧と新聞出版規制の年表

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2018年02月25日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:17イベント報告

「戦争は金儲け」ととらえている奴らばっかり―戦時下で愛国、国策の美名を私益に利用しつくしていた実態

 戦争が起こると戦費を調達しなければいけません。戦前の日本は国債を乱発、これを軍需景気と合わせて金儲けの機会に利用したのが、証券会社や保険会社です。こちら、昭和14年4月の山一證券株式会社調査課が用意した資料です。

 「支那事変国債一覧表」と「生産力拡充等時局関係社債一覧表」です。資金運用の参考資料として社内向けに用意したものでしょう。生産力拡充等時局関係社債一覧表では、東京電気、三菱重工業、古河電気工業、芝浦製作所、中島飛行機、日本製鉄といった有力企業がずらりと並び、4・3%の利回りなど示しています。

 支那事変国債一覧表は、国内だけではなく、満州国債も。

 こちらは、昭和17年11月、野村証券株式会社が岐阜県の顧客に送ったパンフレット「野村が提供する新利殖法―野村の投資信託―」と申込書です。昭和16年11月に初めて売り出した商品で「500円の資金でも何百万円の資金を投資運用するのと同様な結果が得られる」など、宣伝文句がはでに並んでおり、戦時下とは思えぬもうけ礼賛一点張りです。

 こちらは、昭和18年初頭に使われていた、日本生命の利源配当付保険の宣伝チラシです。「戦時下にふさわしい」を強調して売り込んでいます。

 このチラシの裏には「五月事務所大対抗戦規定」が印刷されていました。

 昭和18年5月中の新規獲得実績の金額で勝敗を決定するとしており、勝者には実績の金額に応じて祝勝金を渡すとしています。50万円以上に対し70円と、月給に近い金額を用意していました。国債の乱発で市中にあふれた資金をいかに自社に集めるか、しのぎを削っていた様子を伝える貴重な内容です。

 銀行に務めていた小林多喜二は、こうしたからくりもよくわかっていたのでしょう。「蟹工船」の中で、労働者にこんなことを語らせています。「今までの日本のどの戦争でも、ほんとうは―底の底を割ってみれば、みんな2人か3人の金持ちの(そのかわり大金持ちの)さしずで、動機(きっかけ)だけはいろいろにこじつけて起こしたもんだとよ」(岩波文庫版より)。戦旗掲載版では、「戦争」が「××」と伏字にしてありました。

 戦争を賛美するスローガンや戦争そのものまでも、無垢な庶民をうまく動かし金儲けをするための魔法でしかないー。これらの資料や小林多喜二の慧眼は、現代にも通じる警鐘に思えるのです。

2018年2月24日 記

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2018年02月24日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:55収蔵品

大正14年、家業が苦しく入営兵の休暇を願う書類―働き手を取られる徴兵制の裏面が浮き彫りに

 岡山県朝日村の村長が、歩兵第10連隊の中隊長にあて、現役兵として召集中の兵士に家業のため休みをとらせるように願い出た書類です。

 日付は大正14年4月8日。「本人入営以来、生家の生活状態非常に苦難」として、最近、下士卒のうち半数位は休みをとっていると聞き及んでおり、この兵士にもそうさせてほしいと記載してあります。

 訴えの内容を見ると、家屋は家業の船乗りに使う船の購入などの借金で抵当に入っていました。そして入営前は親子2人で船乗りをしていたところ、父親1人ではできなくなったため雇い入れをしたが、経費がかかる一方で営業の成績は上がらず、窮していると。


 さらに母親は神経痛で自分のこともままならず、入営兵の内縁の妻も子供を産んだが母乳が出ないため、練乳などの購入にお金がかかるといった状態でした。

 戦前の日本で徴兵で入営すると、2年間の軍隊生活が待っています。その間、俸給は出ましたが、もちろん家族を支えたりすることができる金額ではありません。独身ならともかく、この兵士のように家族経営の家業だった場合、たちまち経営が行き詰まることも。商店の場合も、入営中にライバルにお得意様をとられてしまうといったこともありました。農家にとっても、人力が頼りだった戦前では、一番の働き手をとられるわけですから、痛手だったでしょう。「半数近く」が休んでいることからも、厳しい状況がうかがえます。

 軍隊を維持するには、若者を送り出す側の経済的基盤も必要なのです。実際、長野県でも満州事変当時、入営する子供に一銭も持たせてやれないと泣き伏す親の姿を見かねて警官や上官がこづかいを渡したという逸話もあるのです。そんな中、ささやかな庶民の自衛策として、入営した場合に保険金が下りる「徴兵保険」が隆盛することになるのです。

2018年2月23日 記

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2018年02月23日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:21収蔵品

薪炭、木材、漁業…戦時下の増産に「報国手帳」乱発


 泥沼の日中戦争から太平洋戦争に突入、あらゆる物資が不足してきた日本では、増産のために「報国手帳」が乱発されました。

 昭和18年に発行が始まった「木材生産報国手帳」の裏には、これでもかと標語が並んでいます。

 この木材生産報国手帳。名称は仰々しいですが、使い方は単純。木材生産に従事した日数を記入すると、それに応じて生活必需物資を特配してもらえるという、まるでスタンプ帳のようなものです。長野県発行の漁業増産報国手帳も、漁獲高、漁具、えさの配給の記録簿になっています。

 薪炭生産報国手帳は、生産量に応じての特配だった様子。所蔵している手帳には、こんな新聞の切り抜きが貼ってありました。

 前年に比べて増産すると報奨金が出るという制度の導入を伝えています。やはり、政府も増産意欲を高めるには、「報国」の掛け声だけではだめと判断したようです。現場でも盛り上がって貼り付けたようですが、特別に増産した形跡はありませんでした。

2018年2月22日 記

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2018年02月22日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:19収蔵品

小林多喜二「蟹工船」掲載で発禁となった昭和4年6月号「戦旗」―伏字と圧殺―今の時代だからこそ知ってほしい


 昭和4年6月1日発行の月刊誌「戦旗」。グラビアにはメーデーの様子が載っています。大正14年に制定された治安維持法が、昭和3年には最高刑を死刑とする改悪がなされています。そんな時代にありながら、各地で政府や資本家に対する抗議の行動を起こす人たちがたくさんいたのです。

 資本主義が労働者を搾取する様子を余すところなく描いたプロレタリア作家、小林多喜二の代表作「蟹工船」が掲載された、この「戦旗」。発売禁止となったものの、間もなく単行本が発行されて、多くの人の手に渡ることになります。

 そして当時、この作品は多くの人に評価され、読売新聞でも1929年度上半期の最大傑作として、多くの文芸家から推されたといいます。

 ところで、この当時の紙面を見ますと、伏字がたくさんあるのが分かります。検閲対策で伏字にしつつ、それでも発禁になってしまったのです。

 ちなみに、この写真に写っている部分の伏字は「旋盤の鉄柱に、前の日の学生が『縛』りつけられているのを見た。『首』をひねられた『鶏』のように『首』をがくり『胸』に落とし込んで」となっています。監督による激しい労働者への暴力を描写した場面です。

 小林多喜二は、85年前の1933年(昭和8)年2月20日、警察署で特高警察による取り調べによって虐殺されました。取り調べ中、心臓麻痺を起したという説明でしたが、遺体の内出血などの状況から、激しい拷問を受けた末の死亡であったことが明らかでした。小林多喜二を虐殺した警察官は、いずれも戦後、何の罪にもならず天寿を全うしています。

 治安維持法違反では死刑はほとんどいないといった擁護の声があるようですが、取り調べと称する拷問や長期拘留による病死など、裁判を経ない虐殺が横行していた事実を忘れてはいけません。そして、どんな理由づけをしようと、検閲や思想の弾圧は、とめどめなく広がることを学んでおかねばなりません。

 こうした権力のやり方は、いつの時代でも気を付けていないとうごめきだすものです。権力者は権力を維持するためなら手段を択ばない、ということは肝に銘じておく必要があると、多くの犠牲者たちが伝えているように思えます。

2018年2月21日 記

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2018年02月21日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:59収蔵品

昭和20年7月25日号のアサヒグラフ特集「偽装して草取り」に驚愕―笑顔に救われますが

 終戦間際の昭和20年7月25日発行のアサヒグラフ。こんな特集がありました。

 背中や菅笠に草を付けた農家の皆さんが草取り中です。

 立ち上がるとこんな感じに。

 横方向からの写真もあります。こちらは麦わらで偽装した女性です。

 立ち上がったときの笑顔は、戦争中であることを一瞬忘れさせてくれます。

 撮影場所は、新潟県三島郡片貝村。新潟県ではこの年の5月5日に直江津へB29が1機飛来して爆撃、3人が死亡していましたが、表情からは、緊迫感が感じられません。しかしこの後、8月1日にB29が120機あまり長岡市に来襲。死者1143人、罹災者6万人以上を出す長岡空襲、10日には新潟港への空襲が続き、終戦となりました。

 せめて、この写真が撮影されたころに戦争が終わっていれば…。ここまで国民を追い詰めて、何を守りたかったのでしょう。

2018年2月20日 記

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2018年02月20日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:33収蔵品

戦争の犠牲者である傷痍軍人に席を譲らないのは、戦前も戦後も変わらず―専用席をの声も

 昭和23年8月10日発行の長野県内発行月刊誌「信毎情報」は、「忘れられる人々」と題し、グラビアで傷痍軍人の姿をルポしています。こちらは、バス車内の傷痍軍人の写真です。

 「かつてわれわれをたたえた彼女たちは冷たくも座席に腰かけ、私はこうして不自由な身体で立っていく…」と写真説明。なんとなく納得できそうに思えますが、こうした反応は決して終戦を境に変わったのではありません。

 昭和15年8月13日付信濃毎日新聞の投書を紹介します。(読みにくい漢字を適宜現代字やひらがなに変え、句読点を入れてあります)
 「長野電鉄にて ▼このごろの長野電鉄線は、いつも満員です。その日も湯田中からの都会人、しかもリュックサック背負った体位向上?をもって自ら任ずる若き男女でしたが所せまきまでにひろがり、私たちは中途から乗るので腰かける場もありませんでした。▼ちょうど延徳駅と思いました。傷痍軍人章をつけたご老人が足を引きずりつつステッキをつきながら乗ったのでしたが、この若き人々の誰もが席を譲ろうとする人もなく、しかも章を見て見ぬふりをしている奴らのみだったのです。この時局に自分は遊ぶためにこうしてきて、しかもそれができるのは誰々の為かも知ってか知らでか。▼ぜひもっともっとこうした人々に敬意と一般民が感謝の念がなければならないと思います。また、ああした場合、車掌も「ちょっと席をお譲り願いたいものです」ぐらい言いうる訓練もほしいと思います」

 まさに、昭和23年も昭和15年も、同じようなことが起きているのです。そして、そのことを現場で言ってあげる人もいないようです。

 そんな中、当の傷痍軍人さんの思いを代弁するコラムが昭和17年12月6日付信濃毎日新聞にありました。
 <車内に傷痍軍人席>
 「ある陸軍病院を訪れて、傷痍軍人の方々の話をきいたが、さまざまの話の中で、汽車などの乗り物のなかに、できることなら傷痍軍人席という風なものを設けてもらえないであろうかという言葉は、かなり多数の一致した意見のように見受けられた。
 自分たちも乗り物に乗るときに、そういう設備がないために非常に気がねであるが、ほかの一般の乗客たちも、おそらく気がねなのではなかろうかというのである。自分たちが白衣で、あるいは傷痍軍人の徽章をつけて汽車に乗り込んでいくと、なにか席を譲れと要求しているように思われはしないかという気がして、大変気がねだというのである。
 親切にされるのはうれしいのだが、どこか親切を要求しているかのようにみられるのは心苦しいというのである。それだから、もしも傷痍軍人のための席であるといった風な場所が、初めから設けられていたならば自分たちはもちろんのこと一般乗客もずいぶんたすかるだろうというのである。
 傷痍軍人席のような設備ができれば、それに越したことはない。しかし、それよりも、そういうことを思いつくに至るまでの傷痍軍人のこまやかな心遣いをおもって、筆者はもったいなく感じたことをここに付け加えておきたい」

 こうして読んでくると、日本人の持っている特質が、現在まで受け継がれているように感じます。みんな、何とかしたいという思いや不快な感情はあるのに、それを改善するために自分からは行動しないこと。「車掌が言ってほしい」という言葉は、システムの指示には従うという、暗黙の了解があるようです。それがわかっているから、専用席をというアイデアも出てくるのでしょう。

 一人ひとりが住みよい社会を作るために体を動かしたり声を上げたりすることを、自分からはやらない。誰かに指示してもらったり取決めをつくってもらえば従う。これは、個人の行動を嫌い、権力に従うという、日本人の本質を表しているのではないかと。世の中はどこかのえらいさんが動かしているという、主体性のなさ。だから、どんな理不尽でも従う。でも、心から納得しているわけではないから、おかしいと声を上げる人や行動する人に対しては、全力でその行為を非難する。だって、自分は我慢しているのに、あの人は自由にするのはおかしいという論理でしょう。

 こうした日本人の行動原理は、多分に農耕的です。共同作業をするため、誰かに従う必要がある。天候という人知の及ばない物に左右されて、あきらめを必要とする。そんな中で、大多数の善良で従順な庶民と、その特性を生かして搾取する人という構造が固まってきたのではないかと。

 でも、もうそんなこととはさよならしませんか。我慢してその鬱憤を弱者や行動する人にぶつけるなんて、カッコ悪くないですか。行動できなくても、行動する人を素直にすごいなあとみてやれませんか。その積み重ねが、みんなが住みよい社会を生んでいくんではないでしょうか。その力が「戦争なんてやりたくない」という、庶民の願いをずっと形として維持していくことにつながるのではないでしょうか。

 最初に紹介した信毎情報のグラビアでは、療養所の食糧確保に苦労したり、金網あみなどの技能を身に着けたりと、懸命に生きる傷痍軍人さんたちの姿が一緒に紹介されていました。この写真は、配給された砂糖をコメなどに物物交換する傷痍軍人の方です。

 

 どんな立場の人だろうと、さらりと支え支えられ気がねなく生きていける、そんな社会を築いていきたいものです。

2018年2月19日 記
2019年1月31日 加筆修正

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2018年02月19日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:14収蔵品