昭和20年、長野県宮川学校で疎開児らに配られたビスケット、74年ぶりに発見―完全な品は初めて
昭和20年1-3月にかけて、当時の皇后陛下(香淳皇后)が疎開学童激励のために御歌と御菓子を下賜されました。長野県では、2月11日紀元節に合わせて疎開学童に配るとともに、疎開学童を受け入れている各学校の児童にも独自に複製したお菓子を配りました。信州戦争資料センターは、この長野県が複製し配布したとみられるビスケットを入手しました。
縦4・6センチ、横3・5センチ、厚さ7ミリの卵型で、重量は3・5グラムです。1個だけ、油紙に包まれ、事務用封筒に入った状態で入手しました。
封筒には「昭和二十年二月十一日 紀元節二皇后陛下ヨリ疎開学童二賜リタルお菓子ト同一ノモノヲ宮内省ヨリ授与セラレタルお菓子 諏訪郡宮川学校」とありました。この文章をそのまま読めば、このビスケットは疎開学童に配ったものと同じと考えられます。2018年4月17日付信濃毎日新聞によりますと、現在の茅野市宮川学校に残っていた当直日誌には、東京都中野区の谷戸国民学校の疎開学童へ2月11日に御賜御菓子伝達式があったと記録されており、この時に配布、保管されたものであることは間違いないでしょう。
学童疎開に詳しい北海道大学の逸見勝亮名誉教授の論文「皇后のビスケットー集団疎開学童二対シ御激励ノ思召」(1999年 教育史学第42集 80-96ページ)によると、全国の疎開学童約40万人に対し、1個3・75グラムのビスケットが25個ずつ「御賜」と書かれた袋入りで一袋ずつ配られたとのことです。栄養補給とともに、疎開が国家的な取り組みであることを納得させる狙いがあったといいます。
皇后陛下配布のビスケットは、これまで不完全な形で一つだけ見つかっていました。長野県の浅間温泉へ疎開した学童が家族に送ったもので、姉は半分に割って食べたが妹がふびんになり、残りを桐箱にとっておいたというもの。完全な形は各種の文献でも不明でした。形状は重要なポイントですので逸見名誉教授に直接お尋ねしたところ、この破片を製図の専門家に依頼して調べたところ元の形は円形と推測されたこと、逸見教授自身の聞き取りでも円形だったという複数の証言が得られていることから、宮内省でつくったものは円形であった可能性が高い―と説明を受けました。
では、この卵型のビスケットは何でしょうか。それを調べるため、もう一度逸見名誉教授の論文を見てみますと、昭和19年12月23日付文部省国民教育局長通牒がヒントになりました。この通牒は御菓子について「受入側地元国民学校児童二対シテモ集団疎開学童ヲ通ジ拝受ノ御菓子ヲ分ツ様適当ナル措置ヲ講ジ御思召二副(そ)ヒ奉ル様指導スルコト」としています。各都府県や学校での対応はさまざまで、児童や引率教員が御菓子を分けたところや、一緒に会食したところもありました。地元学童用に分けたビスケットは1個だけのため、サツマイモと小麦粉の饅頭をつくって補った例もあったのです。
そして長野県です。昭和20年2月3日付の信濃毎日新聞記事によりますと「御慈悲のほどを地元学童にも徹底せしむべく複製菓を作成…地元学童に分かつこととなった」との記述がありました。同日付の長野県内政部長より松本市の開智国民学校にあてた「御下賜品菓子伝達通知」によると、受け入れ側国民学校学童にも複製品を作成し学童教職員に1人10個あてとしています。なお、疎開学童分は袋に入れてありますが、複製品は「資材の関係上」ばらで渡すので受け取りの為の袋などを用意するようにとしていました。
つまり、当時の宮川国民学校の教職員に配られたのは、基本的に長野県による複製品でした。皇后陛下から下賜された御菓子の一部は、地元教職員用にも参考程度に用意されたことが内政部長通知から分かります。ただ、今回入手したものは形が証言とは食い違い、長野県作成の複製品とみるのが妥当でしょう。封筒には「疎開学童二賜リタルお菓子ト同一ノモノヲ宮内省ヨリ授与セラレタルお菓子」とあり、卵型のビスケットを宮内省が作った可能性も否定できませんが、浅間温泉のビスケットも円形とみられることから、同じ長野県内で2種類の形があったとも考えにくいです。
なぜ卵型になったのでしょうか。推測するに、皇后陛下から下賜された御菓子と同一のものを作るのは「恐れ多い」との意識が働いたのではないでしょうか。皇后陛下のビスケット製造も、かなり特別な配慮を受けて厳しい資材をやりくりしていました。とすれば、長野県が単独で同質の物を作るのはかなり困難だったと思われます。そんな事情も「恐れ多い」ことに含まれ、明確に区別したと推測されます。
そして教職員に対し、単に複製品としか知らされず、受け入れ側教員向けにわずかに配布されるはずだった本当の御賜の御菓子も疎開学童の教職員らに全部渡してしまったとすれば、形の比較もできず、宮内省が同一の複製品を作ってくれたと勘違いしてもおかしくないでしょう。
今後、新たな証言が出てくれば、内容が改まるかもしれません。ただ、現状ではこのビスケットについて、長野県が皇后陛下の御菓子伝達に合わせて作った複製品と見るのが妥当でしょう。しかし、この御菓子の存在は、確かに疎開があり、学童に国が与えた処置を伝える上で貴重な歴史の証言者であるとの意味があせることはないでしょう。
2018年4月21日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
縦4・6センチ、横3・5センチ、厚さ7ミリの卵型で、重量は3・5グラムです。1個だけ、油紙に包まれ、事務用封筒に入った状態で入手しました。
封筒には「昭和二十年二月十一日 紀元節二皇后陛下ヨリ疎開学童二賜リタルお菓子ト同一ノモノヲ宮内省ヨリ授与セラレタルお菓子 諏訪郡宮川学校」とありました。この文章をそのまま読めば、このビスケットは疎開学童に配ったものと同じと考えられます。2018年4月17日付信濃毎日新聞によりますと、現在の茅野市宮川学校に残っていた当直日誌には、東京都中野区の谷戸国民学校の疎開学童へ2月11日に御賜御菓子伝達式があったと記録されており、この時に配布、保管されたものであることは間違いないでしょう。
学童疎開に詳しい北海道大学の逸見勝亮名誉教授の論文「皇后のビスケットー集団疎開学童二対シ御激励ノ思召」(1999年 教育史学第42集 80-96ページ)によると、全国の疎開学童約40万人に対し、1個3・75グラムのビスケットが25個ずつ「御賜」と書かれた袋入りで一袋ずつ配られたとのことです。栄養補給とともに、疎開が国家的な取り組みであることを納得させる狙いがあったといいます。
皇后陛下配布のビスケットは、これまで不完全な形で一つだけ見つかっていました。長野県の浅間温泉へ疎開した学童が家族に送ったもので、姉は半分に割って食べたが妹がふびんになり、残りを桐箱にとっておいたというもの。完全な形は各種の文献でも不明でした。形状は重要なポイントですので逸見名誉教授に直接お尋ねしたところ、この破片を製図の専門家に依頼して調べたところ元の形は円形と推測されたこと、逸見教授自身の聞き取りでも円形だったという複数の証言が得られていることから、宮内省でつくったものは円形であった可能性が高い―と説明を受けました。
では、この卵型のビスケットは何でしょうか。それを調べるため、もう一度逸見名誉教授の論文を見てみますと、昭和19年12月23日付文部省国民教育局長通牒がヒントになりました。この通牒は御菓子について「受入側地元国民学校児童二対シテモ集団疎開学童ヲ通ジ拝受ノ御菓子ヲ分ツ様適当ナル措置ヲ講ジ御思召二副(そ)ヒ奉ル様指導スルコト」としています。各都府県や学校での対応はさまざまで、児童や引率教員が御菓子を分けたところや、一緒に会食したところもありました。地元学童用に分けたビスケットは1個だけのため、サツマイモと小麦粉の饅頭をつくって補った例もあったのです。
そして長野県です。昭和20年2月3日付の信濃毎日新聞記事によりますと「御慈悲のほどを地元学童にも徹底せしむべく複製菓を作成…地元学童に分かつこととなった」との記述がありました。同日付の長野県内政部長より松本市の開智国民学校にあてた「御下賜品菓子伝達通知」によると、受け入れ側国民学校学童にも複製品を作成し学童教職員に1人10個あてとしています。なお、疎開学童分は袋に入れてありますが、複製品は「資材の関係上」ばらで渡すので受け取りの為の袋などを用意するようにとしていました。
つまり、当時の宮川国民学校の教職員に配られたのは、基本的に長野県による複製品でした。皇后陛下から下賜された御菓子の一部は、地元教職員用にも参考程度に用意されたことが内政部長通知から分かります。ただ、今回入手したものは形が証言とは食い違い、長野県作成の複製品とみるのが妥当でしょう。封筒には「疎開学童二賜リタルお菓子ト同一ノモノヲ宮内省ヨリ授与セラレタルお菓子」とあり、卵型のビスケットを宮内省が作った可能性も否定できませんが、浅間温泉のビスケットも円形とみられることから、同じ長野県内で2種類の形があったとも考えにくいです。
なぜ卵型になったのでしょうか。推測するに、皇后陛下から下賜された御菓子と同一のものを作るのは「恐れ多い」との意識が働いたのではないでしょうか。皇后陛下のビスケット製造も、かなり特別な配慮を受けて厳しい資材をやりくりしていました。とすれば、長野県が単独で同質の物を作るのはかなり困難だったと思われます。そんな事情も「恐れ多い」ことに含まれ、明確に区別したと推測されます。
そして教職員に対し、単に複製品としか知らされず、受け入れ側教員向けにわずかに配布されるはずだった本当の御賜の御菓子も疎開学童の教職員らに全部渡してしまったとすれば、形の比較もできず、宮内省が同一の複製品を作ってくれたと勘違いしてもおかしくないでしょう。
今後、新たな証言が出てくれば、内容が改まるかもしれません。ただ、現状ではこのビスケットについて、長野県が皇后陛下の御菓子伝達に合わせて作った複製品と見るのが妥当でしょう。しかし、この御菓子の存在は、確かに疎開があり、学童に国が与えた処置を伝える上で貴重な歴史の証言者であるとの意味があせることはないでしょう。
2018年4月21日 記
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歴史の記録は日々の中にあり―2018年4月18日朝刊を保存する意味
2018年4月18日付信濃毎日新聞朝刊は、一面のトップで自衛官の国会議員暴言事件を取り上げていました。
現職の自衛官幹部が国民の代表である国会議員に対し「お前は国民の敵だ」と罵声を浴びせたという出来事。さすが「関東防空演習を嗤う」を掲載した信濃毎日新聞。文民統制を揺るがす事態を見抜き、一番重要な扱いとして紙面に掲載しました。この新聞は、これまでためてきた戦時資料の新聞とともに、信州戦争資料センターの所蔵品として保管しておくことにしました。
この紙面が、センターで収蔵している過去のどんな紙面と歴史的に並びうるか。たとえば、この昭和7年5月16日付国民新聞朝刊。
あるいは、この昭和11年2月27日付東京日日新聞朝刊。
昭和20年に天皇直属の大日本帝国陸海軍が消滅、文民統制の国民のための実力組織としてその存在を認められて来た自衛隊。その自衛隊が「国民」を錦の御旗に、その巨大な力を「国民の代表」に向けたという、戦後築いてきた自衛隊の原則を覆す重大事件です。当時、決起した軍隊を国民が支持し、その力が政治を左右するようになった象徴的な事件が先の古い紙面です。
今回も、ことを見抜けない防衛大臣が罵声を浴びせた自衛官の心情を理解する発言をするなど、戦前のように死者は出ていないものの、軍隊による専横を蘇らせる舞台構造は全く同じです。
日々の新聞はフローの記録ですが、積み重なった新聞はストックとなり、歴史を記録します。きょうの新聞も50年、100年たてば、立派な歴史記録です。その時「ああ、こんなばかげた自衛官もいたな」と一笑に付すことができるのか「これが転換点だったな」と暗雲たる気持ちでいるのか。それまで、大切に保管を続けていきましょう。
信州戦争資料センターは、現在の事象でも時としてこのように収録し、説明とともに記録することがあります。これは主張ではありません。この時代を生きている人間として、未来のために過去も現在も記録するのが責務であると考えるからです。
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現職の自衛官幹部が国民の代表である国会議員に対し「お前は国民の敵だ」と罵声を浴びせたという出来事。さすが「関東防空演習を嗤う」を掲載した信濃毎日新聞。文民統制を揺るがす事態を見抜き、一番重要な扱いとして紙面に掲載しました。この新聞は、これまでためてきた戦時資料の新聞とともに、信州戦争資料センターの所蔵品として保管しておくことにしました。
この紙面が、センターで収蔵している過去のどんな紙面と歴史的に並びうるか。たとえば、この昭和7年5月16日付国民新聞朝刊。
あるいは、この昭和11年2月27日付東京日日新聞朝刊。
昭和20年に天皇直属の大日本帝国陸海軍が消滅、文民統制の国民のための実力組織としてその存在を認められて来た自衛隊。その自衛隊が「国民」を錦の御旗に、その巨大な力を「国民の代表」に向けたという、戦後築いてきた自衛隊の原則を覆す重大事件です。当時、決起した軍隊を国民が支持し、その力が政治を左右するようになった象徴的な事件が先の古い紙面です。
今回も、ことを見抜けない防衛大臣が罵声を浴びせた自衛官の心情を理解する発言をするなど、戦前のように死者は出ていないものの、軍隊による専横を蘇らせる舞台構造は全く同じです。
日々の新聞はフローの記録ですが、積み重なった新聞はストックとなり、歴史を記録します。きょうの新聞も50年、100年たてば、立派な歴史記録です。その時「ああ、こんなばかげた自衛官もいたな」と一笑に付すことができるのか「これが転換点だったな」と暗雲たる気持ちでいるのか。それまで、大切に保管を続けていきましょう。
信州戦争資料センターは、現在の事象でも時としてこのように収録し、説明とともに記録することがあります。これは主張ではありません。この時代を生きている人間として、未来のために過去も現在も記録するのが責務であると考えるからです。
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昭和17年4月18日のドゥリトル空襲を受け、安田生命はさっそく動きました
昭和17年4月18日にあった、B25による日本本土への空襲。この攻撃を「商機」ととらえてさっそく行動したのが安田生命でした。
B25らしき爆撃機を描き「空襲なんぞ恐るべき」とアピール。しかし、敵のゲリラ空襲には備えないとと、「是非弊社の新種保険に御加入を」とおすすめしています。
実にたくましきは商魂でしょうか。
2018年4月18日 記
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B25らしき爆撃機を描き「空襲なんぞ恐るべき」とアピール。しかし、敵のゲリラ空襲には備えないとと、「是非弊社の新種保険に御加入を」とおすすめしています。
実にたくましきは商魂でしょうか。
2018年4月18日 記
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インパール作戦、ビルマ撤退戦の肉筆画デジタル保存プロジェクト開始します
長野県飯田市出身の元大日本帝国陸軍兵長、牧内寛末さん(故人)が従軍したインパール作戦やビルマからの撤退戦の肉筆画を、ご遺族からお借りしました。戦争の貴重な証言を後世に伝える為、信州戦争資料センターが独自にデジタル化をしたいと申し出たところ、ご快諾いただけました。感謝の至りです。できれば年内にも、解説付きで公開か販売できるよう、努力いたします。
お借りしたのは、ここに示した回想録と、スケッチブック2冊、スケッチブックのコピー1束です。この回想録は、昭和21年6月に復員した牧内さまが、間もなく書かれたものです。ほかの絵は戦友と連絡を取りながら、当時の記憶をできるだけに正確にと2000年ごろに描かれたものです。
昭和18年8月に東部第48部隊に召集され、一か月ほどの訓練ののちに仏印へ上陸。半年後にはビルマ派遣第15軍補充要員としてインパールの戦線に。昭和20年1-5月にかけて連合軍の攻撃を受けてタイにのがれ復員まで、ほぼ全編を絵と文で網羅しています。
こちらは、アラカン山脈越えの兵士の列です。分解した野砲を運んでいる様子です。牧内さまは旧制飯田中学校(現・飯田高校)在学中から油彩画に親しみ、農民美術研究所でも学んだ方で、デッサンはしっかりしています。
輸送には象も参加していたようです。
復員時には、空母葛城に乗船していました。下からあおった感じは、まさに空母の特徴を見事に示しており、牧内さまの画力を感じます。
戦闘場面だけではなく、各地の風景や風俗も描き残しています。こちらは仏印・サンジャックの港の風景です。
こちらは、タイのプノンペンの様子。メコン川を行き来した船も描いています。
計画では、回想録に描かれた54枚の絵を質感を含めて残すためカメラで、残りの絵はスキャニングで記録し、解説文は新たに書き起こすほか、地図も併用して絵を描いただいたいの地点を確定したいと思っています。お金もかかりますが「戦争は絶対してはいけない。よく覚えておくように」と子供たちに話していたという牧内さまの遺志を後世に残すためです。無理せずぼちぼち作業を進め、研究者にもご利用いただけるようなものにしたいと思っています。
この回想録の発見を報じた新聞記事を見て「どこかに寄付してもらい、公開してほしい」と他人事のようにツイートしたことを恥じております。大事だと思ったら、自分でやればいい。そんな単純なこと、すぐに思いつかなかったのかと。遅まきながら、着手させていただいたことを報告いたします。
2018年4月14日 記
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お借りしたのは、ここに示した回想録と、スケッチブック2冊、スケッチブックのコピー1束です。この回想録は、昭和21年6月に復員した牧内さまが、間もなく書かれたものです。ほかの絵は戦友と連絡を取りながら、当時の記憶をできるだけに正確にと2000年ごろに描かれたものです。
昭和18年8月に東部第48部隊に召集され、一か月ほどの訓練ののちに仏印へ上陸。半年後にはビルマ派遣第15軍補充要員としてインパールの戦線に。昭和20年1-5月にかけて連合軍の攻撃を受けてタイにのがれ復員まで、ほぼ全編を絵と文で網羅しています。
こちらは、アラカン山脈越えの兵士の列です。分解した野砲を運んでいる様子です。牧内さまは旧制飯田中学校(現・飯田高校)在学中から油彩画に親しみ、農民美術研究所でも学んだ方で、デッサンはしっかりしています。
輸送には象も参加していたようです。
復員時には、空母葛城に乗船していました。下からあおった感じは、まさに空母の特徴を見事に示しており、牧内さまの画力を感じます。
戦闘場面だけではなく、各地の風景や風俗も描き残しています。こちらは仏印・サンジャックの港の風景です。
こちらは、タイのプノンペンの様子。メコン川を行き来した船も描いています。
計画では、回想録に描かれた54枚の絵を質感を含めて残すためカメラで、残りの絵はスキャニングで記録し、解説文は新たに書き起こすほか、地図も併用して絵を描いただいたいの地点を確定したいと思っています。お金もかかりますが「戦争は絶対してはいけない。よく覚えておくように」と子供たちに話していたという牧内さまの遺志を後世に残すためです。無理せずぼちぼち作業を進め、研究者にもご利用いただけるようなものにしたいと思っています。
この回想録の発見を報じた新聞記事を見て「どこかに寄付してもらい、公開してほしい」と他人事のようにツイートしたことを恥じております。大事だと思ったら、自分でやればいい。そんな単純なこと、すぐに思いつかなかったのかと。遅まきながら、着手させていただいたことを報告いたします。
2018年4月14日 記
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日中戦争下の昭和15年、武道偏重に真っ向から異議を唱え、外来スポーツや娯楽性を擁護した新聞記事がありました
日中戦争も終わりが見えない状態になりつつあった昭和15年1月1日の信濃毎日新聞に「戦時下のスポーツ 武道偏重は悪い」と題した東大教授の末広厳太郎法学博士の寄稿文がありました。戦時下、スポーツによる報国を肯定しつつも、武道の精神性の強調やスポーツ排撃に対して理論的に疑義を唱えた文章です。言ってることは控えめではありますが、逆に戦時下にはそんな控えめな良識さえ蹂躙されていたことを示しているかもしれません。
近年も学校現場への武道導入、銃剣道の国体毎年開催(その陰でボクシングが隔年開催に)など、武道推進の動きが目立ってきています。武道を特に重視するところに落とし穴はないか、現代にも通じることと考え、著作権切れでもあることから全文を転載します。(読みにくい漢字を適宜ひらがななどに変え、句読点を補充しています)
「戦時非常の今日、スポーツの実践もまた極力戦争目的に貢献する精神の下に行われねばならぬこと素より言うまでもない。戦争目的に沿わざるものは、仮にスポーツの名をもってするも断然許すべからざるはもちろん、むしろ進んで積極的に戦争目的に協力貢献してゆくことこそ戦時下スポーツマンの心がけでなければならない。
しかしながら、すべてのことがそうであるように、スポーツにはスポーツ独特の特色がある。他の何物をもってしても代えがたい特徴がある。従ってスポーツをもって戦争目的に貢献するについても、常に忘るべからざるはその特色を活かすことである。その特色を活かしてその特色を利用すればこそ、スポーツ独特の貢献が可能となるのであって、報国の名の下にスポーツの特色を忘れて無反省に時局に迎合するがごとき行動をとることは、まさにスポーツの自殺であり自己否定であると言わねばならない。
まず第一に、戦争の刺激によって国防競技のごとき直接戦闘技術として役立つ形式のスポーツが生まれたことはもとより当然、むしろ大に喜ぶべきことであるが、さらばと言うて直接戦闘技術的の形式をとらない在来のスポーツを排斥すべき理由は少しもない。すべてスポーツの特色は勝敗を争う興味の中に自ら身体を鍛練し敢闘精神を養成しうる点に存するのであるから、スポーツの正しき実践によってやがては戦線に立ち、また銃後にあっていかなる艱難辛苦にも耐えうべき体力精神力を養成することこそスポーツ報国の本義であり、戦時下スポーツマンの心がけでなければならない。
いかに形だけは戦闘技術的の形式をとっていても、それによって心身の鍛練をなしえないようなものは戦時国家の目的に沿わないスポーツの実践というべく、之と反対に形は直接戦闘技術に無関係であってもこれによって鉄のごとき体力を鍛え不屈俯仰の精神を養うに足るものは刻下吾々の最も尊重すべきスポーツでありその実践であると言わねばならない。しかるに、事変この方在来のスポーツを単なる遊戯と同一視して之を排斥せんとするがごとき浅薄なる論説をよく耳にするのは吾等の最も遺憾とするところである。
第二に、現在一般民衆によって愛好されている各種のスポーツが例外なく明治この方外国から輸入されたものであるの故を持って、時局柄何となく之を白眼視して、日本人はよろしく日本在来の武道に復帰すべしというような議論をなすものがあり、スポーツマンの間にも、間々この時流に抗しえずとなすがごとき口吻を漏らすものがあるけれども、かくのごときはスポーツそのものの本義を理解せざるのみならず、武道の周囲に漂っている伝統的なものの価値を過重視し武道の価値の限局を忘るるものと言わねばならない。ことに現在一部の学生の間で行われつつある武道のごときに至ってが、いたずらに技巧と勝敗の末とにのみ捉わるるのみであって、果たして心身鍛練にどこで役立つべきか甚だ疑わしいと考えられるものさえある。
かくのごとき本義を逸した武道の実践が、例えば敵のものすごい集団ドリブルの前に敢然身を投じて味方の危機を救うことを当然事と心得ているラグビーの人々、又常人にはほとんど想像もつかない苦しさに打ち勝ちつつ勝利のために奮闘する陸上の走者や水上の泳手のなすところに比べて、果たしてどれだけの長所をもち日本精神に適合するものをもっているか、およそ武道を解しまたスポーツを解する人ならば、誰しも容易に理解し得るところであると言わねばならない。剣道と拳闘、柔道とレスリング、その優劣を問えば時局柄誰しも容易に手を前者に挙げたがるものであるが、多少とも事情に通じているものは、両者の優劣が事の本体に存せずして、むしろ実践の方法と実践者の心がけに存することを知っているのである。
終わりにスポーツが面白いということを何かスポーツの欠点であるように考える人があるらしいけれども、スポーツの面白いことはむしろその長所でこそあれ、決して欠点ではない。同じく栄養をとらせるにしても、栄養になるからと言うて無理にうまくない物を食わせるよりは、うまいうまいと思わせつつ自ら栄養を摂取せしめるように仕向ける方がいいに決まっている。従ってスポーツが武道や体操などに比べて比較的容易に多数人の興味を引きうることはむしろ長所であるのだから、その長所を活かして不知不識のうちに心身の鍛練をなさしめることこそスポーツ報国の本義であると言わねばならない。
なお、世の中には非常時の故をもってむやみに精神の緊張を要求するのみであって、娯楽によって人心をやわらげることが長期にわたって活き活きした精神力を維持するゆえんであることを忘れている人が少なくないようであるが、正しい娯楽の価値を正しく認識し得ないのはむしろ我国人一般の欠点であって、それがため、とかく事に臨んで焦燥的傾向に陥りやすく、長きにわたってことを大成しがたい欠点を暴露するのだと吾々は考えている。この故に、スポーツが勝敗を争う興味の中に自ら心身の鍛練に役立っていることは、決して排撃すべき短所ではない。戦時下スポーツのことを論ずる人々は、よろしくこの点に思いをいたすべきである。」
以上ですが、戦時下はもちろん、わたしたちの日常にもここに挙げた偏狭な精神論や根性論がはびこっていないでしょうか。娯楽も大事―とこの時期に唱えていた人がいたこと、現代でも耳を傾ける必要があると思えます。
2018年4月12日 記
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近年も学校現場への武道導入、銃剣道の国体毎年開催(その陰でボクシングが隔年開催に)など、武道推進の動きが目立ってきています。武道を特に重視するところに落とし穴はないか、現代にも通じることと考え、著作権切れでもあることから全文を転載します。(読みにくい漢字を適宜ひらがななどに変え、句読点を補充しています)
「戦時非常の今日、スポーツの実践もまた極力戦争目的に貢献する精神の下に行われねばならぬこと素より言うまでもない。戦争目的に沿わざるものは、仮にスポーツの名をもってするも断然許すべからざるはもちろん、むしろ進んで積極的に戦争目的に協力貢献してゆくことこそ戦時下スポーツマンの心がけでなければならない。
しかしながら、すべてのことがそうであるように、スポーツにはスポーツ独特の特色がある。他の何物をもってしても代えがたい特徴がある。従ってスポーツをもって戦争目的に貢献するについても、常に忘るべからざるはその特色を活かすことである。その特色を活かしてその特色を利用すればこそ、スポーツ独特の貢献が可能となるのであって、報国の名の下にスポーツの特色を忘れて無反省に時局に迎合するがごとき行動をとることは、まさにスポーツの自殺であり自己否定であると言わねばならない。
まず第一に、戦争の刺激によって国防競技のごとき直接戦闘技術として役立つ形式のスポーツが生まれたことはもとより当然、むしろ大に喜ぶべきことであるが、さらばと言うて直接戦闘技術的の形式をとらない在来のスポーツを排斥すべき理由は少しもない。すべてスポーツの特色は勝敗を争う興味の中に自ら身体を鍛練し敢闘精神を養成しうる点に存するのであるから、スポーツの正しき実践によってやがては戦線に立ち、また銃後にあっていかなる艱難辛苦にも耐えうべき体力精神力を養成することこそスポーツ報国の本義であり、戦時下スポーツマンの心がけでなければならない。
いかに形だけは戦闘技術的の形式をとっていても、それによって心身の鍛練をなしえないようなものは戦時国家の目的に沿わないスポーツの実践というべく、之と反対に形は直接戦闘技術に無関係であってもこれによって鉄のごとき体力を鍛え不屈俯仰の精神を養うに足るものは刻下吾々の最も尊重すべきスポーツでありその実践であると言わねばならない。しかるに、事変この方在来のスポーツを単なる遊戯と同一視して之を排斥せんとするがごとき浅薄なる論説をよく耳にするのは吾等の最も遺憾とするところである。
第二に、現在一般民衆によって愛好されている各種のスポーツが例外なく明治この方外国から輸入されたものであるの故を持って、時局柄何となく之を白眼視して、日本人はよろしく日本在来の武道に復帰すべしというような議論をなすものがあり、スポーツマンの間にも、間々この時流に抗しえずとなすがごとき口吻を漏らすものがあるけれども、かくのごときはスポーツそのものの本義を理解せざるのみならず、武道の周囲に漂っている伝統的なものの価値を過重視し武道の価値の限局を忘るるものと言わねばならない。ことに現在一部の学生の間で行われつつある武道のごときに至ってが、いたずらに技巧と勝敗の末とにのみ捉わるるのみであって、果たして心身鍛練にどこで役立つべきか甚だ疑わしいと考えられるものさえある。
かくのごとき本義を逸した武道の実践が、例えば敵のものすごい集団ドリブルの前に敢然身を投じて味方の危機を救うことを当然事と心得ているラグビーの人々、又常人にはほとんど想像もつかない苦しさに打ち勝ちつつ勝利のために奮闘する陸上の走者や水上の泳手のなすところに比べて、果たしてどれだけの長所をもち日本精神に適合するものをもっているか、およそ武道を解しまたスポーツを解する人ならば、誰しも容易に理解し得るところであると言わねばならない。剣道と拳闘、柔道とレスリング、その優劣を問えば時局柄誰しも容易に手を前者に挙げたがるものであるが、多少とも事情に通じているものは、両者の優劣が事の本体に存せずして、むしろ実践の方法と実践者の心がけに存することを知っているのである。
終わりにスポーツが面白いということを何かスポーツの欠点であるように考える人があるらしいけれども、スポーツの面白いことはむしろその長所でこそあれ、決して欠点ではない。同じく栄養をとらせるにしても、栄養になるからと言うて無理にうまくない物を食わせるよりは、うまいうまいと思わせつつ自ら栄養を摂取せしめるように仕向ける方がいいに決まっている。従ってスポーツが武道や体操などに比べて比較的容易に多数人の興味を引きうることはむしろ長所であるのだから、その長所を活かして不知不識のうちに心身の鍛練をなさしめることこそスポーツ報国の本義であると言わねばならない。
なお、世の中には非常時の故をもってむやみに精神の緊張を要求するのみであって、娯楽によって人心をやわらげることが長期にわたって活き活きした精神力を維持するゆえんであることを忘れている人が少なくないようであるが、正しい娯楽の価値を正しく認識し得ないのはむしろ我国人一般の欠点であって、それがため、とかく事に臨んで焦燥的傾向に陥りやすく、長きにわたってことを大成しがたい欠点を暴露するのだと吾々は考えている。この故に、スポーツが勝敗を争う興味の中に自ら心身の鍛練に役立っていることは、決して排撃すべき短所ではない。戦時下スポーツのことを論ずる人々は、よろしくこの点に思いをいたすべきである。」
以上ですが、戦時下はもちろん、わたしたちの日常にもここに挙げた偏狭な精神論や根性論がはびこっていないでしょうか。娯楽も大事―とこの時期に唱えていた人がいたこと、現代でも耳を傾ける必要があると思えます。
2018年4月12日 記
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昭和20年4月7日、沖縄に向かった戦艦大和が沈没―8月7日の新聞で報道されるが「大和」の名も艦長の名もない
昭和20年4月7日、天一号作戦によって沖縄に向かった戦艦大和、軽巡洋艦矢矧などの艦隊は米軍の航空攻撃により壊滅、大和も撃沈されます。この攻撃が正式に海軍から発表されたのは出撃から4カ月後の8月6日。7日の朝日新聞は、一面トップでこの話題を掲載しました。
「燦たり・海上特別攻撃隊」「沖縄周辺の敵艦隊に壮烈なる突入作戦 伊藤大将以下、大義に殉ず」との見出し。「航空部隊の総攻撃に呼応して戦艦を含む海上部隊も特別攻撃隊を編成、指揮官伊藤整一中将座乗の巨艦先頭に沖縄島周辺に壮烈果断な突入作戦を敢行、帝国海軍の伝統をこの一戦に発揮し沖縄決戦の劈頭を飾ったのであった」と書かれています。
発表は、この事実関係のみ。小沢司令長官による布告の発表でした。「海上特攻隊突撃の最後の戦闘状況は部隊が生還を期せざりし特攻隊であったがため、未だ全貌を明らかにする時期に至っていないが、指揮官伊藤中将をはじめ乗り組み勇士のあまた征いて還らず、水漬く屍と散った」とし、沈没艦船の情報は何もありません。そのせいか、取り上げられている人物は伊藤中将のみです。
大和の艦長で戦死した有賀幸作大佐(戦死後中将)は、長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町出身)。しかし、大和の存在そのものが秘密であり、艦名も艦長の名も登場しなかったのでしょう。ちなみに、大和の護衛にあたった第2水雷戦隊司令官で矢矧に乗った古村啓蔵少将も同じ朝日村出身の同期(生還)。こちらも触れられることはありませんでした。
一億特攻の先駆けに、ということでの出撃でしたが、その将兵の犠牲から四か月後、なぞだらけの発表で終わり。何のための出撃であったのか、あらためて考えさせられた日でした。3722人という多数の命を失わせるほどの、意味のある作戦だったのでしょうか。
同じ紙面には、広島への原爆投下が、わずか4行の記事で紹介されていました。「若干の損害を被ったもよう」と。都合によって人を死に赴かせ、人の死の情報も操作する、それが戦争の姿なのでしょう。
2018年4月7日 記
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「燦たり・海上特別攻撃隊」「沖縄周辺の敵艦隊に壮烈なる突入作戦 伊藤大将以下、大義に殉ず」との見出し。「航空部隊の総攻撃に呼応して戦艦を含む海上部隊も特別攻撃隊を編成、指揮官伊藤整一中将座乗の巨艦先頭に沖縄島周辺に壮烈果断な突入作戦を敢行、帝国海軍の伝統をこの一戦に発揮し沖縄決戦の劈頭を飾ったのであった」と書かれています。
発表は、この事実関係のみ。小沢司令長官による布告の発表でした。「海上特攻隊突撃の最後の戦闘状況は部隊が生還を期せざりし特攻隊であったがため、未だ全貌を明らかにする時期に至っていないが、指揮官伊藤中将をはじめ乗り組み勇士のあまた征いて還らず、水漬く屍と散った」とし、沈没艦船の情報は何もありません。そのせいか、取り上げられている人物は伊藤中将のみです。
大和の艦長で戦死した有賀幸作大佐(戦死後中将)は、長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町出身)。しかし、大和の存在そのものが秘密であり、艦名も艦長の名も登場しなかったのでしょう。ちなみに、大和の護衛にあたった第2水雷戦隊司令官で矢矧に乗った古村啓蔵少将も同じ朝日村出身の同期(生還)。こちらも触れられることはありませんでした。
一億特攻の先駆けに、ということでの出撃でしたが、その将兵の犠牲から四か月後、なぞだらけの発表で終わり。何のための出撃であったのか、あらためて考えさせられた日でした。3722人という多数の命を失わせるほどの、意味のある作戦だったのでしょうか。
同じ紙面には、広島への原爆投下が、わずか4行の記事で紹介されていました。「若干の損害を被ったもよう」と。都合によって人を死に赴かせ、人の死の情報も操作する、それが戦争の姿なのでしょう。
2018年4月7日 記
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ニッポンすごい!樺太を探検した「間宮林蔵」は、いつのまにか「俯仰不屈の愛国者」に
こちら、昭和17年8月25日発行の大日本雄弁会講談社の絵本「間宮林蔵」です。
しっかりした絵でまずまずの展開です。
ただ、神社にお参りしたときに、お国のために役立つ人間になりたいーと誓ったという挿話があり、かなりこれは無理筋ではと。
通商交渉の不成立で生じたロシア兵の上陸場面も出てきますが、ただ、乱暴なロシア兵の攻撃という一方的な描写となっています。
物語の最期では、樺太が島であることを確認したことに続いて「日本人のえらさを世界に示しました」ととってつけたように書いてあります。いや、間宮林蔵がえらいし、明治政府が打倒した幕府が探検させたのですが。
そして解説文。間宮林蔵以前に外国で唱えられた樺太の島説は無視。さらに地図をシーボルトに渡すなどしたシーボルト事件についても、「烈々たる憂国の至誠から出たこと」など、勝手な解釈を展開。最後はまたもや「俯仰不屈の愛国者間宮林蔵」と、脈絡なく形容しています。
とにかく、愛国とつけておけばいい、というのは、商品だけではなかったようです。
2018年4月4日 記
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しっかりした絵でまずまずの展開です。
ただ、神社にお参りしたときに、お国のために役立つ人間になりたいーと誓ったという挿話があり、かなりこれは無理筋ではと。
通商交渉の不成立で生じたロシア兵の上陸場面も出てきますが、ただ、乱暴なロシア兵の攻撃という一方的な描写となっています。
物語の最期では、樺太が島であることを確認したことに続いて「日本人のえらさを世界に示しました」ととってつけたように書いてあります。いや、間宮林蔵がえらいし、明治政府が打倒した幕府が探検させたのですが。
そして解説文。間宮林蔵以前に外国で唱えられた樺太の島説は無視。さらに地図をシーボルトに渡すなどしたシーボルト事件についても、「烈々たる憂国の至誠から出たこと」など、勝手な解釈を展開。最後はまたもや「俯仰不屈の愛国者間宮林蔵」と、脈絡なく形容しています。
とにかく、愛国とつけておけばいい、というのは、商品だけではなかったようです。
2018年4月4日 記
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昭和8-9年の長野商業学校③ ウサギ狩りや販売祭などの傍ら、慰問袋寄付も モノクロ写真のカラー化でどうぞ
昭和8-9年の長野商業学校(現・長野商業高校=長野県長野市)の日常風景から、いくつか拾い、ニューラルネットワークによる自動色付けをしました。こちらは商業学校らしい、販売祭の化粧品売り場です。
こちらが元写真です。ほかにも呉服の店とかいろいろ。現在でも「長商デパート」という、生徒が株式会社を作って運営するイベントが伝統です。
こちらはウサギ狩りです。山がすぐそばの学校なので、そこで楽しんだのでしょうか。
こちらが元写真です。色付けした方が、少しは表情とかわかりやすいでしょうか。
こちら、学報部による慰問袋集め。今回の色付けで一番うまく色が出ました。満州事変当時で、地元の松本50連隊が出征していた関係でしょうか。こうして学校の日常にも戦争が入り込んでいます。
こちらが元写真。
最後に、射撃部員のポーズ写真。
こちらが元写真です。もちろん、部活動はほかにも武道、陸上、バレーボール、バスケットボールなど多数あり、このころは野球部も健在でした。書道部の展示もありました。そんな中に、普通にこうした部活動もあるのが、戦前の学校の姿でした。
2018年4月3日 記
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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
※他の自動色付け写真はこちらの一覧からごらんください。

こちらが元写真です。ほかにも呉服の店とかいろいろ。現在でも「長商デパート」という、生徒が株式会社を作って運営するイベントが伝統です。

こちらはウサギ狩りです。山がすぐそばの学校なので、そこで楽しんだのでしょうか。

こちらが元写真です。色付けした方が、少しは表情とかわかりやすいでしょうか。

こちら、学報部による慰問袋集め。今回の色付けで一番うまく色が出ました。満州事変当時で、地元の松本50連隊が出征していた関係でしょうか。こうして学校の日常にも戦争が入り込んでいます。

こちらが元写真。

最後に、射撃部員のポーズ写真。

こちらが元写真です。もちろん、部活動はほかにも武道、陸上、バレーボール、バスケットボールなど多数あり、このころは野球部も健在でした。書道部の展示もありました。そんな中に、普通にこうした部活動もあるのが、戦前の学校の姿でした。

2018年4月3日 記
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昭和8-9年の長野商業学校②―高田の歩兵連隊で営内宿泊(下) 兵器に親しむ #ニューラルネットワークによる自動色付け
昭和8年当時、新潟県高田市の歩兵第30連隊で営内宿泊をした、長野県長野市の長野商業学校(現・長野商業高校)の生徒たち。現場で使用している各種の兵器に触れています。こちらは、防毒マスクの装着と十一年式軽機関銃の見学場面です。
こちらが元写真です。写真撮影を意識してはいますが、リラックスした雰囲気で楽しんでいるようです。
こちらは、三年式重機関銃の説明。2年前に九二式重機関銃が正式採用されていましたが、まだすべてにいきわたっていなかったのかもしれません。
こちらが元写真です。
こちらは、2年前に正式採用となったばかりの九二式歩兵砲。これは確かに新兵器に触れた、というところです。歩兵と共に行動する「大隊砲」とも呼ばれるなじみ深い兵器です。ただ、車輪のスポークが穴なしの金属板というのは、あまり写真などで出てきません。初期の試作的な車輪かもしれません。
こちらが元写真です。
こちらは、十一年式軽機関銃を対空用の銃架に載せて対空姿勢をとっている場面です。急速に発展してきた飛行機への対応を考え、生徒にも基礎的技術として教えていたことが分かります。
こちらが元写真です。
営内宿泊は、軍隊の現状を若者たちに伝えるかっこうの現場であったことがうかがえます。生徒たちの服装などから、これらの兵器については触っただけのようですが、こうした行為が国防思想普及に役立ったこと、軍隊への抵抗感を少なくしたことは想像できます。その過酷さは、実戦の連続となる時代でいやというほど知ることとなるのです。
2018年4月2日 記
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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
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こちらが元写真です。写真撮影を意識してはいますが、リラックスした雰囲気で楽しんでいるようです。

こちらは、三年式重機関銃の説明。2年前に九二式重機関銃が正式採用されていましたが、まだすべてにいきわたっていなかったのかもしれません。

こちらが元写真です。

こちらは、2年前に正式採用となったばかりの九二式歩兵砲。これは確かに新兵器に触れた、というところです。歩兵と共に行動する「大隊砲」とも呼ばれるなじみ深い兵器です。ただ、車輪のスポークが穴なしの金属板というのは、あまり写真などで出てきません。初期の試作的な車輪かもしれません。

こちらが元写真です。

こちらは、十一年式軽機関銃を対空用の銃架に載せて対空姿勢をとっている場面です。急速に発展してきた飛行機への対応を考え、生徒にも基礎的技術として教えていたことが分かります。

こちらが元写真です。

営内宿泊は、軍隊の現状を若者たちに伝えるかっこうの現場であったことがうかがえます。生徒たちの服装などから、これらの兵器については触っただけのようですが、こうした行為が国防思想普及に役立ったこと、軍隊への抵抗感を少なくしたことは想像できます。その過酷さは、実戦の連続となる時代でいやというほど知ることとなるのです。
2018年4月2日 記
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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、東京大学教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
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昭和8-9年の長野商業学校①―高田の歩兵連隊で営内宿泊(上) #ニューラルネットワークによる自動色付け
長野県長野市の長野商業学校(現・長野商業高校)の昭和8年度生卒業アルバムから、軍事関連の写真を中心に、色付けをしてみました。印刷写真なのであまりいい結果は出ていませんが、少しはモノクロより感じが出ていると思います。今回は、長野県に隣接する新潟県にあった高田市の歩兵第30連隊に宿泊して訓練(営内宿泊)した際の様子を紹介します。こちらは実包射撃。実際の銃弾を射撃するには、実際に兵士が使う射撃場での体験が手軽でした。
こちらが元写真。
こうした野外教練だけではなく、兵士の生活全般を体験しています。こちらは兵営における麦飯の食事風景です。
こちらが元写真。
こちらは食器洗いと説明がありました。後方の建物が水場だったのでしょうか。
こちらが元写真です。
こちらは、兵営のベッドにもぐって就寝という場面。営内宿泊では、こうして兵士のリズムまで感じさせたのでしょう。
こちらが元写真です。
こうした営内宿泊は、多くの学校が実施していました。学校で行う教練では体験できないことをやらせて、徴兵に備えさせていたのです。ここまで準備しても、上官や古兵から厳しい仕打ちを受けた人も多かったのです。
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※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けを試しています。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、首都大学東京准教授の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
※他の自動色付け写真はこちらの一覧からごらんください。

こちらが元写真。

こうした野外教練だけではなく、兵士の生活全般を体験しています。こちらは兵営における麦飯の食事風景です。

こちらが元写真。

こちらは食器洗いと説明がありました。後方の建物が水場だったのでしょうか。

こちらが元写真です。

こちらは、兵営のベッドにもぐって就寝という場面。営内宿泊では、こうして兵士のリズムまで感じさせたのでしょう。

こちらが元写真です。

こうした営内宿泊は、多くの学校が実施していました。学校で行う教練では体験できないことをやらせて、徴兵に備えさせていたのです。ここまで準備しても、上官や古兵から厳しい仕打ちを受けた人も多かったのです。
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