昭和20年、長野県宮川学校で疎開児らに配られたビスケット、74年ぶりに発見―完全な品は初めて

 昭和20年1-3月にかけて、当時の皇后陛下(香淳皇后)が疎開学童激励のために御歌と御菓子を下賜されました。長野県では、2月11日紀元節に合わせて疎開学童に配るとともに、疎開学童を受け入れている各学校の児童にも独自に複製したお菓子を配りました。信州戦争資料センターは、この長野県が複製し配布したとみられるビスケットを入手しました。
昭和20年、長野県宮川学校で疎開児らに配られたビスケット、74年ぶりに発見―完全な品は初めて

 縦4・6センチ、横3・5センチ、厚さ7ミリの卵型で、重量は3・5グラムです。1個だけ、油紙に包まれ、事務用封筒に入った状態で入手しました。
昭和20年、長野県宮川学校で疎開児らに配られたビスケット、74年ぶりに発見―完全な品は初めて

 封筒には「昭和二十年二月十一日 紀元節二皇后陛下ヨリ疎開学童二賜リタルお菓子ト同一ノモノヲ宮内省ヨリ授与セラレタルお菓子 諏訪郡宮川学校」とありました。この文章をそのまま読めば、このビスケットは疎開学童に配ったものと同じと考えられます。2018年4月17日付信濃毎日新聞によりますと、現在の茅野市宮川学校に残っていた当直日誌には、東京都中野区の谷戸国民学校の疎開学童へ2月11日に御賜御菓子伝達式があったと記録されており、この時に配布、保管されたものであることは間違いないでしょう。

 学童疎開に詳しい北海道大学の逸見勝亮名誉教授の論文「皇后のビスケットー集団疎開学童二対シ御激励ノ思召」(1999年 教育史学第42集 80-96ページ)によると、全国の疎開学童約40万人に対し、1個3・75グラムのビスケットが25個ずつ「御賜」と書かれた袋入りで一袋ずつ配られたとのことです。栄養補給とともに、疎開が国家的な取り組みであることを納得させる狙いがあったといいます。

 皇后陛下配布のビスケットは、これまで不完全な形で一つだけ見つかっていました。長野県の浅間温泉へ疎開した学童が家族に送ったもので、姉は半分に割って食べたが妹がふびんになり、残りを桐箱にとっておいたというもの。完全な形は各種の文献でも不明でした。形状は重要なポイントですので逸見名誉教授に直接お尋ねしたところ、この破片を製図の専門家に依頼して調べたところ元の形は円形と推測されたこと、逸見教授自身の聞き取りでも円形だったという複数の証言が得られていることから、宮内省でつくったものは円形であった可能性が高い―と説明を受けました。

 では、この卵型のビスケットは何でしょうか。それを調べるため、もう一度逸見名誉教授の論文を見てみますと、昭和19年12月23日付文部省国民教育局長通牒がヒントになりました。この通牒は御菓子について「受入側地元国民学校児童二対シテモ集団疎開学童ヲ通ジ拝受ノ御菓子ヲ分ツ様適当ナル措置ヲ講ジ御思召二副(そ)ヒ奉ル様指導スルコト」としています。各都府県や学校での対応はさまざまで、児童や引率教員が御菓子を分けたところや、一緒に会食したところもありました。地元学童用に分けたビスケットは1個だけのため、サツマイモと小麦粉の饅頭をつくって補った例もあったのです。

 そして長野県です。昭和20年2月3日付の信濃毎日新聞記事によりますと「御慈悲のほどを地元学童にも徹底せしむべく複製菓を作成…地元学童に分かつこととなった」との記述がありました。同日付の長野県内政部長より松本市の開智国民学校にあてた「御下賜品菓子伝達通知」によると、受け入れ側国民学校学童にも複製品を作成し学童教職員に1人10個あてとしています。なお、疎開学童分は袋に入れてありますが、複製品は「資材の関係上」ばらで渡すので受け取りの為の袋などを用意するようにとしていました。

 つまり、当時の宮川国民学校の教職員に配られたのは、基本的に長野県による複製品でした。皇后陛下から下賜された御菓子の一部は、地元教職員用にも参考程度に用意されたことが内政部長通知から分かります。ただ、今回入手したものは形が証言とは食い違い、長野県作成の複製品とみるのが妥当でしょう。封筒には「疎開学童二賜リタルお菓子ト同一ノモノヲ宮内省ヨリ授与セラレタルお菓子」とあり、卵型のビスケットを宮内省が作った可能性も否定できませんが、浅間温泉のビスケットも円形とみられることから、同じ長野県内で2種類の形があったとも考えにくいです。

 なぜ卵型になったのでしょうか。推測するに、皇后陛下から下賜された御菓子と同一のものを作るのは「恐れ多い」との意識が働いたのではないでしょうか。皇后陛下のビスケット製造も、かなり特別な配慮を受けて厳しい資材をやりくりしていました。とすれば、長野県が単独で同質の物を作るのはかなり困難だったと思われます。そんな事情も「恐れ多い」ことに含まれ、明確に区別したと推測されます。

 そして教職員に対し、単に複製品としか知らされず、受け入れ側教員向けにわずかに配布されるはずだった本当の御賜の御菓子も疎開学童の教職員らに全部渡してしまったとすれば、形の比較もできず、宮内省が同一の複製品を作ってくれたと勘違いしてもおかしくないでしょう。
昭和20年、長野県宮川学校で疎開児らに配られたビスケット、74年ぶりに発見―完全な品は初めて

 今後、新たな証言が出てくれば、内容が改まるかもしれません。ただ、現状ではこのビスケットについて、長野県が皇后陛下の御菓子伝達に合わせて作った複製品と見るのが妥当でしょう。しかし、この御菓子の存在は、確かに疎開があり、学童に国が与えた処置を伝える上で貴重な歴史の証言者であるとの意味があせることはないでしょう。

2018年4月21日 記

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2018年04月21日 Posted by信州戦争資料センター at 22:28 │収蔵品