昭和18年の長野県で「ヒトラー総統崇拝の名犬」が話題―号令でナチス張りの挙手 一方で犬皮献納の記事も
昭和18年3月9日付信濃毎日新聞に掲載された町の話題「ヒ総統崇拝の名犬?」を転載します(著作権切れを受け。ただし、個人名は控えます)。
ヒトラー独総統崇拝のさすが枢軸日本犬―中野町湯町〇〇食堂主人〇〇さんの愛犬「信公」は本年4歳の牡柴犬だが日本犬独特の利発な性を受け後脚で立ち上がって回る「タチタチ回り」、腹這って歩く「ハッテ来い」、ころりと横臥する「ネンネ」、金語楼のクシャミを彷彿する「ハクション」等々、師範役同家長男〇〇君の号令を聞き分けて何でもやってのける利巧もの。
だが、中で奇抜な芸は「ハイル・ヒトラー」の号令が掛かると右前脚をサッと前方へ伸ばしてアノ独特な挙手の礼をまねることで「ヒトラー崇拝の信公」の通り名で同隣組の誰からもかわいがられている。【写真は「ハイルヒトラー」の号令に挙手の名犬信公】(ここまで転載)
こうした、戦時下ならではの、ちょっとした町の話題ですら当時の新聞には数少なく、犬と人の珍しい記事でした。
一方で、昭和18年2月ごろから、コメの節約を錦の御旗に、各家庭で飼っている犬を毛皮として献納させる運動の記事も目立ってきます。当時、犬をきちんと飼うには税金を納める必要があり、余裕のある家がねたまれたという側面もあったとの指摘があります。それはともかく、国が全国に呼び掛ける昭和19年の暮れよりずっと早い昭和18年3月、長野県北安曇郡社村(現・大町市)では常会の徹底事項に従い、12人の犬の飼育者が犬を殺して毛皮を献納する手続きをとり、さらに犬が食べるはずだったコメ11石も供出することを決めたという記事がありました。
飼育者たちの心情は、信公の飼育者と同じだったはず。それを押し殺して、常会での決定に従ったのです。これが戦争のもたらす同調圧力なのでしょう。
はたして、この話題になった「信公」は、終戦まで生き延びられたのでしょうか。
2018年5月17日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
ヒトラー独総統崇拝のさすが枢軸日本犬―中野町湯町〇〇食堂主人〇〇さんの愛犬「信公」は本年4歳の牡柴犬だが日本犬独特の利発な性を受け後脚で立ち上がって回る「タチタチ回り」、腹這って歩く「ハッテ来い」、ころりと横臥する「ネンネ」、金語楼のクシャミを彷彿する「ハクション」等々、師範役同家長男〇〇君の号令を聞き分けて何でもやってのける利巧もの。
だが、中で奇抜な芸は「ハイル・ヒトラー」の号令が掛かると右前脚をサッと前方へ伸ばしてアノ独特な挙手の礼をまねることで「ヒトラー崇拝の信公」の通り名で同隣組の誰からもかわいがられている。【写真は「ハイルヒトラー」の号令に挙手の名犬信公】(ここまで転載)
こうした、戦時下ならではの、ちょっとした町の話題ですら当時の新聞には数少なく、犬と人の珍しい記事でした。
一方で、昭和18年2月ごろから、コメの節約を錦の御旗に、各家庭で飼っている犬を毛皮として献納させる運動の記事も目立ってきます。当時、犬をきちんと飼うには税金を納める必要があり、余裕のある家がねたまれたという側面もあったとの指摘があります。それはともかく、国が全国に呼び掛ける昭和19年の暮れよりずっと早い昭和18年3月、長野県北安曇郡社村(現・大町市)では常会の徹底事項に従い、12人の犬の飼育者が犬を殺して毛皮を献納する手続きをとり、さらに犬が食べるはずだったコメ11石も供出することを決めたという記事がありました。
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