慰問品2種 前線の兵士のためもうちょっと工夫できないかと思うことと慰問と名付けないと売れない事情と
戦時下、前線には多くの兵士が配置されており、その人たちに慰問品を贈るのも銃後国民の務めであるーと、さまざまなものが作られ、送り出されました。こちらは長野県須坂町(現・須坂市)の軍人後援会がつくった「御慰問 須坂町名勝絵はがき」です。
製作年代は不明。3枚のセットです。こちらは「信州須坂町の一部」。製糸で栄えた町らしく工場の煙突が目立ちます。
こちらは「信州須坂町名所天徳寺」。古刹の雪景色の風情はモノクロに合います。
さて、三枚目は「信州須坂臥龍公園山上の一部」。
えー、1、2枚目はともかく、3枚目は、何をメインに据えて撮ったのか、なぜこの場所を選んだか、さっぱりわかりません。須坂出身の兵士たちが、「そう、ここここ!」と喜ぶエピソードがあったかどうか、定かではありません。というか、当時の絵葉書は何を一体考えて撮ったのか不明なものが多いのも事実ですが。
もう一つ。こちらは、皇軍御慰問を銘打った「文化ウツシエ」です。華やかさがよいですね。昭和18年1月に発売されたものです。
これがそのまま戦場に送られたか、というとそうではありません。中には文字や絵を染料で描いた紙が入っており、これを切って布に載せ、アイロンで転写するというものです。
切り抜いた文字から「まさお」と転写したと想像します。絵は何だったのでしょうか。やっぱりお花だったのでしょうか。そして、転写してつくった何かは、皇軍兵士の手元に行ったのでしょうか。それともこのご家庭の家族などが使われたのでしょうか。なんでも「慰問」としておけば、売る側も買う側も精神的な負担が少なかったのかもしれません。
2018年6月13日 記
※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
製作年代は不明。3枚のセットです。こちらは「信州須坂町の一部」。製糸で栄えた町らしく工場の煙突が目立ちます。
こちらは「信州須坂町名所天徳寺」。古刹の雪景色の風情はモノクロに合います。
さて、三枚目は「信州須坂臥龍公園山上の一部」。
えー、1、2枚目はともかく、3枚目は、何をメインに据えて撮ったのか、なぜこの場所を選んだか、さっぱりわかりません。須坂出身の兵士たちが、「そう、ここここ!」と喜ぶエピソードがあったかどうか、定かではありません。というか、当時の絵葉書は何を一体考えて撮ったのか不明なものが多いのも事実ですが。
もう一つ。こちらは、皇軍御慰問を銘打った「文化ウツシエ」です。華やかさがよいですね。昭和18年1月に発売されたものです。
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2018年6月13日 記
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日清戦争中のおもちゃ店は、やはり軍事関連が人気
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