昭和18年の新聞連載「日本人の体格美」、「短い足は強い」に続く(中)は「団子鼻の優秀さ」―医学的な話はありません!

 昭和18年8月に信濃毎日新聞に3回の連載で掲載した「日本人の体格美」。
 (上)「短い足は強い」に続く(中)は「団子鼻の優秀さ」。掲載の都合からか、書き出し部分は短い足の強さの話から。手先の器用さや肌の色の素晴らしさに続き鼻の素晴らしさをたたえているのですが…。ぜひ、(上)から続けてお読みください。

(著作権切れで転載します。漢字やかなは適宜現代の用語に直し、句読点を補足しています)

日本人の体格美(中)=団子鼻の優秀さ(佐々喜重)

 また、座る習慣は飛行機、戦車、潜水艦のごとき近代兵器の勤務に大きな影響をする。長期間にわたる狭い座席についての勤務は、日本人の驚嘆すべき忍耐力や精神力と共に我が国の日常生活が知らず知らずの間にこのような苦しい勤務に耐える体格を作ったのである。

 さらに我々が日常下駄、草履を愛用することも靴はき人種より足指の感覚の発達に役立つ。また日本人は手先が器用だと言われているが、「それは我々が食事にはしを使用し、女性は針仕事を、子供時代には折り紙、あやとりのごとき手先の訓練をしてきたがためであろう。とにかくスプーンやフォークを使用する欧米人から見れば、我々がはしで食事をとり、小豆までもつまむことができるということは驚くべき技術なのである。彼らが小豆をつまもうとするときはピンセットを持ち出すに相違あるまい。

 これら手足先の感覚は、まあ、砲術、自動車、戦車、あるいは飛行機等の操縦に非常に役立っている。一時機械が高度に発達すると人間の手足は不用になって退化するであろう、と言われたこともあったが、機会が精密になればなるほど感覚が大切になってきている。特に指先の感覚が絶対に必要になってきているのだ。

 我々は黄色人種と呼ばれてきた。黄色人種結構である。我々の黄色は天地の黄色、緑色、土色等を基として赤色、白色等々多数の色素を合わせた色彩であって、包容力のある平和な色彩と言えるのである。特に彼等の毛深いザラザラした皮膚組織は脂肪が適当量平均にゆきわたり、なめらかで、よく手入れされた女性のそれらは、まず世界無類と言っても過言ではあるまい。

 我々の鼻は一般に団子鼻が多いようだ。美しいとされているギリシャ鼻の所有者は少ないが、比較的に丸顔の多い日本人が鼻だけギリシャ鼻であったらオカシナものであろう。

 日本には古来オカメというのが日本女性の一つの理想の形態であった。しもぶくれにふっくらとした柔らかい目の表情、まゆはずっと上方にあって明るく、つまみのような鼻と小さな口唇、一見して優しい豊かな顔が理想であった。オカメの鼻は低いのではなく、両ほほが膨らんでいるので低く見えるのであるが、あの丸い鼻の代わりにギリシャ鼻をつけたらどうだろう。かえってオカシナ顔になってしまう。

 ギリシャ鼻は非常に冷たい感じがするが、丸顔の中にちょっとつまんでみたいようなかわいらしい鼻の所有者は、年をとっても若々しいものである。ギリシャ鼻の賛美者である欧米人ですら、シャーリーテンプルのあどけなさにあこがれを持つのである。鼻の生理機能から言っても、ギリシャ型である必要は少しもない。せいぜい、メガネをかけるのに都合がいいくらいであろう。

 日本人の体格美(下)に続く。

2018年11月16日 記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
  

2018年11月16日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:03時事コラム

昭和18年の新聞に見る<日本スゴイ>連載記事「日本人の体格美」を読んでみよう―(上)短い足は強い

 戦争中、国民の士気を高めるためか、欧米コンプレックスの裏返しのような日本礼賛が雑誌や絵本、新聞にも載りました。長野県の地方紙信濃毎日新聞に昭和18年8月4日から6日まで連載された「日本人の体格美」(佐々喜重)を、著作権切れを受けて転載してます。根拠のないこと、比較にならないことの比較、何より、わざわざ比べて優劣をつけるようなことでもないことを頑張って優秀であると強調しているさまは、大変こっけいな感じがしますが、こうした与太話といえるようなものにでもすがりたかったのでしょうか。

 (転載にあたっては、漢字や仮名遣いを現代風に置き換え、句読点を補っています。また、企画名は「日本人の体格」で始まっていますが最後は「日本人の体格美」と直してあったので、そちらに合わせました)

 ・日本人の体格美(上)=短い足は強い

 日本人は昔から黄色人種といわれ、背の低いあまり美しくない民族のごとくに日本人自身でさえ考えていた人もあったようである。しかし、大東亜戦の戦果は米英軍の心胆を粉砕し、日本人としても民族の誇りを今日ほど強く感じたことはあるまい。自分の性格は自分では分からないと同じように、日本民族の持つ優れた点を知ることができず欧米の優れた点だけが目についた結果、欧米崇拝が生まれたのである。しかし我々は気候風土から眼の色まで彼等とは本質的に違うのだから、彼等が勝手に決めた優劣論をそのまま直訳しようとすれば大間違いである。我々は自分の姿をもっとよく認識しなければならない。

 まず日本民族は世界的にも背の低い方であろう。これは足の短いためであるが、人体の比例と頭の長さを単位として七頭長身八頭長身(身長を八等分すると頭の長さになる)という比率にしたり、あるいはエジプト人が創案した中指の長さの19倍が身長となれば最も美しいとするなど、つまり欧米人の骨格に対する理想を人体美表現上の金科玉条とするならば、日本人の体格は美的比率を持っているとはいえない。しかし、徴兵検査場に出かけて裸体になった壮丁の姿を見るならば、そこには素晴らしく均整のとれた立派な裸体美を発見することができる。

 日本民族には日本民族の比率がある。日本民族が立派な均整のとれた体格の所有者であることは、江戸時代からの名残、はしご乗りで証明することができる。人体の中心というべきところはへそであるが、へその裏側、つまり第三腰椎をはしごの先端に当て支えるならば、だれでも水平になることができるのだ。このことは欧米人に比較すれば足は短いが、実際は最も当然の長さであるといえるのだ。

 また、胴体が長いものは内臓諸器官が発達している証拠である。発達した胴体を支える足は、ヒョロヒョロした長い物では不都合だ。悪口を言われてきた大根足も、当然かくあるべき必然からきたもので、はなはだ満足な結果をもっている。動物界においても、弱いものほど細くて長い足を持ち、逃げ足が速い。

 また、我々は古来、畳の上で生活し、いすによる生活の2倍の屈伸運動を長年月の間繰り返してきたことから、身体各部の関節、特に腰、ひざ、足首の関節ははなはだ頑健に、しかも機敏に発達してきた。競争とか幅跳びのごとき運動競技では背の低い者、足の短い者は足の長い者とは比較にならぬはずなのに、織田、南部のごとき世界一流の選手を出しているのをみても、短い足を補う関節があったことが明瞭である。

 また、今次の戦場で敵の夢想だにできなかった驚異的進撃速度を発揮できた要因、無敵皇軍の行軍力はまさに世界の脅威であるが、行軍だけではなく、身に体重以上の軍装品を背負って歩くのだ。このことは他国では絶対にまねのできないことで、彼らは体重の半分の重量を持たされてすら長途の行軍は困難で、すぐ自動車輸送、鉄道輸送に頼るのだ。だから彼等の作戦計画には、道路鉄道のない地点からの敵の進出ということは考えられなかったに違いない。ところが日本軍は密林の中から、沼沢の中から、こつぜんとして攻撃してきた。我々の目からは当然のことと思えても、彼等にしてみれば魔術のごとく、恐怖のまとであったろう。

 日本人の体格美(中)に続く。

 突っ込みどころがありすぎて困るのですが、一つだけ。重いものを背負えた(にしてもおおげさだが)のは、交通機関がなく、なんでも背負って運ばねばならない環境にあったからであり、民族の優秀性とかとは無関係と思えるのですが…

2018年11月12日 記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。  

2018年11月12日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:13時事コラム

それぞれの10月16日―同じ日付の収蔵品を並べ、大正5年から昭和21年までの戦争を挟んだ世の流れを実感

 2018年9月中旬から、毎日「〇年前の今日」の出だしで、その日付のある収蔵品をツイッターで紹介しています。歴史は年単位で考えがちですが、やはり日々の営みがあり、その積み重ねによって形成していることを実感しています。

 資料を探すのに苦労する日もあれば、いくつもあってどれを選ぶかと考える日もあります。きょう、2018年10月16日は、まさにそのいろいろあるが、これまでで一番多く、しかも多彩であったので、ブログでまとめて紹介します。あまりにも駆け足の歴史ですが、その日に世の中がどうだったかを考えるとともに、その世の中でたくさんの人が行動し、そして苦労していた戦時下に思いをいたしてもらえたらと思います。

 102年前の今日、大正5(1916)年10月16日。帝国在郷軍人会玉川村分会長は、忠魂碑建設の寄付5円を受け取り、賞状型の受領証を吉川さんに渡しました。(玉川村は現・長野県茅野市)

 日清日露の戦役を受けてのものでしょうか。束の間の平和の時代ではありましたが、こうして身近な場所に軍事がありました。そして大正時代もこの後は第一次世界大戦、シベリア出兵と戦争続きになり、満州事変、日中戦争へと突き進んでいきます。

 81年前の今日、昭和12年10月16日。午後6時から伊那町(現・長野県伊那市)の坂下公会堂では時局大講演会を開きました。「銃後について」と題して町長が演壇に立ち、続いて新愛知新聞社(現・中日新聞)の理事が中国の蒋介石とソ連極東司令官の関係について話しました。

 同年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中両軍の衝突は、とうとう本格的な戦闘に発展していたころです。講演会の主催は伊那町銃後会ですが、新愛知新聞専売所の2新聞店が大きく名前を出しており、講師の選定から言っても、販売拡張の一環であったと推測できます。

 79年前の今日、昭和14年10月16日。中国戦線にあった沼田部隊では、戦死した長野県和村(現・東御市)出身の兵士の遺族にあてて、戦死を伝えお見舞いを伝える手紙を用意しました。

 印刷文に戦死者の名前、日付、遺族の名前だけを手書きしたもの。それだけで戦死者の数の多さ、戦場の多忙さを考えさせられます。





 78年前の今日、昭和15年10月16日。日本勧業銀行国民貯蓄勧奨部は「支那事変貯蓄債券グラフ」を発行します。

 戦費は昭和15年度予算までで165億円かかっているとし、貯蓄債券の収益が戦時国債の消化に回されること、インフレを防ぐことを説明。漫画には木炭バスも出ており、通常の経済が回らないことを連想できます。



 裏表紙には、道府県別の貯蓄債券一人当たり消化量を掲載、奮起を促しています。東京、大阪、京都、兵庫の順で、長野は真ん中のあたりです。

 なお、この債券は発売当初に比べ、このころになると小型化していました。長期の戦争で債券の発行枚数も莫大になり、資材を節約する必要があったのでしょう。写真は昭和12年のものと昭和16年のものです。昭和18年8月からは、直接国債を買ったことになる「国債貯金」の制度も始め、一層資材節約に役立てています。



 77年前の今日、昭和16年10月16日。まだ太平洋戦争は始まってっていませんが、大阪毎日新聞は学生動員態勢のための卒業期限繰り上げや、銅の使用制限品目に80品目を追加することを伝えています。この年、11月には国家総動員法に基づく金属類回収令による金属回収が始まります。既に日中戦争で疲弊してきた日本の姿が伝えられています。





 75年前の今日、昭和18年10月16日。朝日新聞は兵役延長や強制疎開の準備、南太平洋の最前線ラバウルへの空襲といった話題を取り上げています。ラバウル空襲では「反攻企図軽視できず」と戦局の厳しさをにおわせています。ただ、戦果が誇大で被害が過小のため、どこまで伝わるかは疑問です。





 73年前の今日、昭和20年10月16日の信濃毎日新聞。一面下に「徴兵保険の転換について契約者各位に謹告」と題した広告があります。戦前は男子が徴兵された時に保険金が支払われ、残された家族の生計や出征の準備にあてるという「徴兵保険」が人気でした。戦争が終わって、当面は徴兵がないことから「関係者協議の結果、新事態に対処し、之を生存保険に転換することと」したと説明。大蔵省のほか、各生命保険会社が並んでいます。生命保険会社は、いずれも〇〇徴兵保険会社という名称を既に転換していました。




 この日の紙面では「好意まで無にさせるな 進駐兵に対する学童のしつけ方」と題した記事も。

 米兵から物をもらってはいけないと厳しく指導したため、兵隊が押し付けるようにして与えたチョコレートを目の前で捨てて気分を悪くさせ殴られたことや、きちんと「土足で入らないで」といったところ、すぐに靴から靴下まで脱いで入ってきたなどと書かれており、日米の軍人かたぎの違いもあると紹介しています。

 こんなとまどいの中、戦後の復興に取り組んでいったのでしょう。

2018年10月16日 記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
  

2018年10月16日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:21収蔵品

戦前の幻想 「伝書鳩でもたらされたアッツ島山崎部隊最後の様子」の作り話広がる―戦争も注目を集めるため活用

 昭和18年5月30日に発表された、アッツ島守備の山崎部隊玉砕の報。大本営が初めて「玉砕」という言葉をつかい、その後マキン、タラワでも使用し「全員壮烈な戦死=玉砕」としみこませた、その最初の悲報です。5月31日付朝日新聞は、一面横ぶち抜きで掲載。

 さらに朝日新聞社は全戦死者の顔写真を掲載した「軍神山崎部隊」なる本を出しており、長野県からも将校3人、下士官兵20人の戦死を数えています。

 「一兵も増援求めず」とありますが、実際は増援を送ることも撤収させることも無理で「見殺し」にされたのが実態でした。

 とはいえ、戦時中はアッツ島のかたきを打て、と戦意高揚で国民は燃え上がった、というか、戦意高揚の材料になっていました。そんな中、昭和18年6月26日の信濃毎日新聞には「造言に惑う勿れ(なかれ) 噴飯の“アッツ島から伝書鳩”」の見出しで、7人が逮捕されたとの記事が載ります。著作権切れであり、全文転載します。(漢字、かなは現代のものに適宜直し、実名の報道をずべて仮名にしました)

 【東京】アッツ島皇軍勇士の玉砕に一億国民は感奮し勇士の心を心として生産増強に米英撃滅のたくましき進軍を進めている折、最近「伝書鳩によってもたらされたアッツ島山崎部隊最後の状況」など虚構の手紙を作りこれを盛んに流布しているものがあり、当局で内探の結果、このほど日本橋区(略)会社東京支店事務員A(21)ほか6名を深川平野署で検挙した。

 手紙はAの想像をたくましうしてでっちあげた噴飯もので、軍旗を捧持しない山崎部隊が軍旗を焼却する状況や当時現地は雨が降っていなかったのに小ぬか雨が降っていたなど全くでたらめを述べている。Aから出た手紙は口頭やあるいは複写されて著名の士のもとへも送られ銃後国民生活を惑わせており、陸軍省報道部、警視庁、憲兵隊ではかくのごとき造言蜚語に惑わされることのないよう、次の通り注意を与えている。

 最近京浜地方に「アッツ」島から伝書鳩にもたらされたという〇〇少尉の手記なるものが流布せられているが、右は全くの虚構欺瞞のものである。文は冒頭に山崎部隊長が突撃前に軍旗を焼却し奉る情景を述べ、中ほどで東京駅の出発を回想し、最後に小ぬか雨が降る中で伝書鳩を飛ばすところで終わっているが、山崎部隊は軍旗を拝受しておらないし同部隊は東京から出発していない。また現地ではその当時雨は降っておらなかった。ことに最大限400キロの飛翔距離しかない伝書鳩であることを考えるとき、これを信ずるものの常識のなさが誠に噴飯ものである。
 この造言はAが山崎部隊玉砕の発表されるや、突撃寸前の情景を想像し、あたかも山崎部隊の将校の通信文なるごとく作成し、これを6月4日、勤め先のB(20)に提示したところ、Bはこれを複写し、翌日勤務先にて同僚のC(34)、D(35)、E(25)、F(19)、G(34)など回覧。Cなどは更に複写の上、家族友人などに流布し次第に広がるようになったものである。7人は造言蜚語の件で警視庁において逮捕、取り調べを受けている。

 以上で記事は終わっています。戦争の報道を、自己顕示のために利用しようとしたのでしょうか。戦時下に玉砕報道に合わせて作り話をつくって流布するなんて、この時代にもそんな人がいたんだなーと感じるだけですが、それを全力で阻止しようとした側の意気込みが、やはりこの時代を感じさせてくれます。

2018年10月4日 記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。

  

2018年10月04日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:07資料

昭和20年9月28日の信濃毎日新聞、復員兵の思いを紹介―買い出し初めて知る、「国家がぐらついたのは国民の責任」とも

 太平洋戦争の敗戦から間もない昭和20年9月28日付の信濃毎日新聞。「青年をいかに導くか―巡査採用試験の答案をのぞく」と題し、「厳しすぎる現実に 立たぬ生活の設計」との見出しで試験を受けた復員者の言葉をまとめています。一読すると、それまで教えられてきたことと新しい状況への戸惑いに加え、前線にいたときにはわからなかったことが理解できた声や、国家がぐらついたのは国民の責任ーと言い放つ人もあり、軍と民衆のかい離が戦争中からずっとあったことが浮き彫りに。戦後間もない貴重な資料と判断、著作権切れもあり、全文転載します。



 <厳しすぎる現実に 立たぬ“生活の設計” “娑婆”に戸惑う復員兵>
 復員で郷里に帰ってきた青年たちは復員当初の無念と興奮からさめて、そろそろ身の振り方を決めようとしている。なすことなく街をぶらつく一部の復員者には「もっぱら買い出し」というようなことを平気で口にし、その不謹慎さに一部心ある人々の眉をひそめているが、いま彼等は一体何を考えているのだろうか。先ごろ行われた本県警察練習所の入所試験には陸士出の中尉も交えて平均年齢23歳の復員者たちが90%以上も押し寄せているが「今後我等は何をなすべきか」という作文の出題に対し、彼らは思い思いの感慨を率直に述べ、青年たちの動向を端的に物語っている。

 「絶対に負けるはずがないと思っていた日本軍が負けてしまった。軍隊生活に別れた時は興奮していたが、今は次第に冷めてきた。『敗戦』の内容を十分に知り、自分を振り返ってみたいと思う」と某海軍上曹は語り、また「教えられてきた特攻精神とこれからの生活を考えると、その差があまりに大きくて戸惑っている」と一曹が述べている。

 したがって「これからどうするか、といえば丸裸になって進まねばならないと思うが、その具体的な計画が少しも立たない」「我等こそ日本を再び発展させてゆかねばならないのであるが、ではどうすればよいかわからない」と、従来教え込まれたいわゆる軍人精神のやり場を失っているという形で「生活建設をどうしてゆくべきかの目鼻が立ちません」と心境をそのまま訴えているものがある。 「これから自由主義になるというが自由主義とはどんなものかわからない」と言っているものも多い。

 ある上等兵は「軍隊にいたときは世間ではなぜ買い出しなんかやるのだろう、そんなことをするから負けてしまったのだと思っていたが、軍隊を離れて初めて国民が食べるものも食べずに戦っていたことを知った。これをどう導いていくかが我等の務めです」。また「帰りの記者の中で買い出しの人々が何かで口論するのを見ましたが、その人々が買い出しをしなければどうしても生活できないことを知って驚きました」と、某海軍兵の言葉にあるように“買い出し”と今まで知らなかった世相を発見して驚いている。

 一海軍少尉は「国家のぐらついたのは国民の責任だ。自分は今まで軍隊で鍛えた体でお役に立ちたい」と言っている。その他「今合での軍官民離反がいけなかった。これからは警官となって“人民戦線”を守ってゆかねばならぬ」というような文字の生半可な理解のものもあった。

 こうした中にあって高一修の黒岩君は「我々の眼前には日増しに敗戦国としての姿が厳しい現実となってきました。これはわずか片鱗にすぎない。こうした重なる苦痛はどんなことをしても耐えてゆかねばならぬわけだが、具体的に我等の進む道というならば『承詔必謹』の道です。もしわれわれがいたずらに今までの考え方に拘泥しているならば到底解決できない問題が多い。情の激するところ正しい理性を失った行動に出ることは慎まなければならない。たとえば我々が被管理者の立場を忘れたごとき行動をすれば、それは逆に国の不忠となるのだ」と身を慎むことを強調しているものが僅か見られている。

 総じて「詔書の御精神に応えよう」との気分は誰しも持っているが、いざそれを具体的にどうするかの問題になると百人百様であたかも思想の混乱期の感がある。同練習所の言によれば「今までのことは何もかも忘れて出直そう」というものが三分の一、「これからは国の方針で言われるままにやっていこう」が三分の一、このほかに少数の「冷静に過去をかえりみて、これから進むべき道をじっとみつめよう」というものと、「盲人蛇におじず」的なものが一部にみられているが、ある一つのゆがんだ感情のものが一部にあるようで理性がめちゃめちゃになっていると当局では言っている。

 (転載終了。句読点と段落を入れ、難しい文字や仮名遣いを適宜現代語に直しました)

 試験の答案についても続く記事でふれており、例えば楠木正成や吉田松陰を「忠臣」として一応知ってはいるが具体的に「何で忠臣か」「どういうことをしたか」は答えられないという、とにかく覚えればいいという弊害が出ている様子。ほかにも地理や国語、全般に学力の低下がみられたということでした。8年間という長い戦争がどれだけのものを失ってきたか、成年教育は大きな社会問題の一つと記事は提起していました。

 2018年9月28日 記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
  

2018年09月28日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:19資料

戦時下に発生した東南海地震の被害は、どう伝えられたか―厳しい報道統制で知らぬは日本国民ばかりの状態に

 今は国内で起きた地震の情報が即座に報道、発表され、個人からの情報発信も盛んですが、戦時下ではどうだったでしょうか。太平洋戦争も終盤に差し掛かった1944(昭和19)年12月7日、東海道沖を震源として発生した「東南海地震」の事例で確認してみました。

 こちらが東南海地震発生翌日の1944年12月8日毎日新聞朝刊です。普段は2ページのところ、「大東亜戦争」4年目突入の記念ということで特別に4ページです。一面は天皇陛下の写真やレイテを巡る戦いの報道で埋まっています。

 ほぼ全面、戦争記事という仕立ての紙面で一生懸命探すと、一番小さい一段見出しで「きのふの地震」と載っていました。わずか5行で「被害を生じたところもある」としただけです。

 通常の2ページに戻った毎日新聞の昭和19年12月9日朝刊には、少し情報が入っています。見出しも2段になって「国民学校倒壊 地震被害」と様子を伝えますが、メインは静岡県の話題。「全壊家屋は予想外に多いが、警防団員等出動して着々復興に努めている」と立ち直りを伝えるばかり。わずかに国民学倒壊で2学童が亡くなったとしただけ。

 名古屋発の記事も見出しは「救護班活動」。破損家屋の片づけは8日朝までに完了、「軽微ながら被害を受けた工場は日ごろ備えた工作隊必死の作業によってたちどころに復旧した」とあり、死者については触れていません。

 しかし、理科年表によると「静岡、愛知、三重などで死者行方不明1223人、住家全壊17599、半壊36520、流失3129。長野県諏訪盆地でも住家全壊12などの被害があった」というマグニチュード7・9の大地震でした。三重県など各地には津波も押し寄せていました。

 東南海地震最大の被害地であった名古屋では、中島飛行機半田製作所山方工場や三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場など、飛行機の生産工場が軒並み大打撃を受けていました。先に挙げた2工場は軟弱地盤、レンガ造り、老朽化、そして生産のために隔壁を取り除いてあったことなどで地震の一撃で倒壊、多数の作業員が圧死しました。この中には、長野県からの動員学徒の犠牲者が9人もいました。

 地元の中部日本新聞社は地震直後から緊急取材体制に入り、編集局は詳しい被害状況を夕刻までにつかんでいました。査閲デスクは特高課検閲係に報道内容の判断を求め続けていましたが、「軍需工場については一切ふれてはならん」「当局の発表を基本として、民心の安定を狙いとした内容に限ること」との厳命に終始。この結果、12月8日朝刊の記事は「地震による被害復旧は急速に行われ…闘志は満々と満ち溢れている」という、毎日新聞と同様の記事になりました。

 さて、長野県での報道はどうでしょう。昭和19年12月8日の信濃毎日新聞朝刊も特別の4ページ体制で、やはり3ページ目に2段見出し10行の記事が入りました。

<県下に強度の地震 諏訪地方等に倒壊家屋>
 「7日午後1時37分ころ県下全般にわたって強度の地震があり諏訪地方が最もひどく諏訪湖畔では家屋のガラス戸がことごとく破れ人家も倒壊したが死傷者はない見込み。なおこのほか県下では北沢工業、日本電子、東洋○○各工場建物、また日本無線○○工場事務所が倒壊したが直ちに復旧作業にとりかかった」

 記事の仕立て方は諏訪を震源とするかのような感じですが、続けて「名古屋地方に地震」「震源遠州灘」の2本の記事がいずれも5行ずつ、発生の事実のみを伝えています。軍需工場の被害も伝えているのは意外ですが、地震発生から3時間ほどして諏訪警察署が発表しています。動揺を抑えるため、県警察部と相談のうえ、正確な情報を出したとも考えられています。

 地元の東南海地震体験者の会によると、実際の被害は工場全壊8、半壊7。住家全壊13、半壊73。学校半壊2、負傷は数十名で、一人死亡した可能性があるが確認できていないとのことでしたが、こうした数字はこの後も出てきません。

 新聞はなぜ報道できなかったのでしょう。従来の新聞紙法に加え、日中戦争勃発とともに軍規保護法が強化されます。陸海軍からも戦況報道の要綱が出されます。内閣情報部職員の情報官には現役軍人が多数就任、検閲にとどまらず編集方針にも踏み込む統制をおこなうようになりました。また、政府が物資動員計画に基づいて紙の配給統制を始めたうえ、昭和15年には内閣情報部が情報局に昇格して情報統制の権限を強めたことも背景にあります。

 そして政府は昭和16年1月11日、国家総動員法に基づく新聞紙等掲載制限令を公布。軍事外交上の秘匿すべき事項、財政経済政策など国策遂行に重大な支障を生じる恐れのある事項は報道禁止に。それを決めるのは政府や軍でした。警察の特高係が目を光らせ、逆らうと用紙割当削減の恐れがあるという状況。太平洋戦争が始まると同法に基づく新聞事業令が公布され、新聞事業の規制と統制団体設置による管理が始まり、新聞の統合も政府の指導で急速に進められるなど、雑誌も含めた報道媒体への締め付けは激しいものになりました。

 実際に東南海地震でどのような指示が出されたか、国立公文書館の所蔵資料にありました。当時の検閲を知る貴重な資料ですので、以下に抜粋してみます。

内務省警保局図書課新聞検閲係「勤務日誌」 
【12月7日】
(一)全国主要日刊社、主要通信社電話通達
十二月七日午後発生セル震災ニ関スル記事ハ時局柄左記事項ニ御留意ノ上 記事編集相求度
          記
一 災害状況ハ誇大刺激的ニ無ラザルコト
二 軍ノ施設、軍需工場、鉄道、港湾、通信、船舶ノ被害等戦力低下ヲ推知セシムルガ如キ事項ヲ掲載セザルコト
三 被害程度ハ当局発表若ハ記事資料ヲ扱フコト
四 災害現場写真ハ掲載セザルコト

 (二)東京都及東海近畿各府県主要日刊社電話通達
1 本日電話ヲ以テ申入レ置キタル震災ニカカワル記事取扱注意事項ニ左記ヲ追加シタルニ付御了知相求度
          記
一 軍隊出動ノ記事ハ掲載セザルコト
二 名古屋、静岡等重要都市ガ被害ノ中心地或ハ被害甚大ナルガ如キ取扱ヲ為サザルコト

 (三)東京六県電話通達
本日ノ震災ニカカワル記事写真ハ凡ソ事前検閲ヲ受ケタル上御取扱相成度

【12月8日】
各庁府県電話通達
中部近畿地方震災ニ関スル記事取締要領
一 取締方針ニ付テハ昨日連絡セル注意事項ニ依ルコト
一 事前検閲ヲ励行スルコト
一 被害程度ノ数字ニ関スル発表ハ依然トシテ留保スルコト
一 被害状況ノ報道ハ単ニ被害ノ事実ノミノ報道ニ止ムルコトナク復旧又ハ救護等ノ活動状況ヲ主トシ併セテ被害ノ事実ヲ報道セシムル様指導スルコト
一 記事取扱注意事項第二項ニ示セル各種施設ノ被害ニ付テハ引続キ一切掲載セシメザルコト
一 ラジオ放送ニ付テハ近ク中央気象台発表(簡単ナルモノ)程度ノモノヲ放送スル筈ナルヲ以テ右放送以後地方放送ニ於テ、被害対策本部ノ設置等簡単ナル事項ノ放送ヲ為スモ差支ナシ
一 新聞報道ニ付テハ目下ノトコロ制限緩和ノ見込ナキヲ以テ災害地府県ニ於テ人心安定上必要アリト認ムルトキハ本要領ノ趣旨ニ則リ特報掲示ニ依ル報道差支ナシ 但シ被害程度ニ付テハ市町村ヲ単位トスル局地的ノモノニ止ムルコト

東京大社、関係府県主要日刊社電話及公式指導
厚生大臣ノ震災地慰問ニ関スル記事ハ一切之ヲ新聞紙ニ掲載セザル様記事編集上御注意相成度
(抜粋終了)

 以上を見れば分かりますが、東南海地震の報道規制は内務省からの指示が基本になっていて、各県の警察部の特高課で対応したのです。被害の数字を伝えてはだめで、写真も掲載禁止でした。そして発災翌日には記事の書き方まで指示してあり、各社が復旧の話ばかり載せた理由が分かります。それにしても大臣の視察が報道禁止とは、そこまで被害を過少に見せたかったのでしょうか。

 報道が抑え込まれて軽微な被害との印象を与えたことから、各地からの義捐金や救援物資も届かなかったといいます。そして海外では観測網によって日本で大きな地震が発生したことを把握していて、被害の状況も伝えるという、海外への防諜という意味は全くなく。神頼みで米英撃滅ってやっていたところに、神風じゃなくて地震で被害となったら、国内向けの士気が下がると思ったのかもしれません。こうして、国民へは限られた媒体で政府や軍の認めた情報しか流れなくなる状況に陥っていたのでした。

 参考資料ー戦争が消した諏訪震度6

2018年9月10日 記
2021年12月7日 追記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
  

2018年09月10日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:11資料

戦時下、いろんな貯蓄がありましたが「一機一艦一銭貯金―戦果発表記念貯金」とは。戦果に連動して貯金額が決まりますが…

 戦時下の日本では、インフレを防ぐためにさまざまな形で貯金が奨励されました。こちら、どこで使われたものかはわかりませんが「一機一艦一銭貯金 戦果発表記念貯金」なるものを入手しました。

 要綱によりますと、毎日のニュースによって敵の航空機、軍艦に与えた損害を集約し、毎月、その数に一銭をかけた額を貯金すると。戦果のとりまとめと報告は地区の翼賛壮年団が行う、大東亜戦争完結をもって終了するというもの。

 飛行機は撃墜と地上破壊、軍艦は空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦となっています。昭和18年10月から昭和19年9月分までとなっています。

 昭和18年秋といえば学徒動員やキスカ撤退、絶対国防権制定と、防戦に移っている時期。はたして景気のいい戦果で貯蓄は進んだのでしょうか。ちなみに、入手した2通は氏名が書きこまれていたにもかかわらず、無記入でした。とりまとめた戦果が大きすぎて無理がかかったのでしょうか。その逆だったのでしょうか。

2018年9月7日 記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
  

2018年09月07日 Posted by 信州戦争資料センター at 23:00収蔵品

関東大震災で長野県に「不逞鮮人」の話題がどう伝わり、どんな動きがあったか―当時の新聞記事で追う

 大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災の混乱の中で行われた、朝鮮人虐殺。長野県へはどんな情報が流れ、どんな動きがあったのでしょうか。写真は、長野県内の関東大震災第一報となった9月2日付信濃毎日新聞夕刊(1日発行)。当時の信濃毎日新聞で関連記事を探してみました。

 <9月4日付夕刊(3日発行)>
 最初の朝鮮人関連記事が載ります。「朝鮮人400名捕縛 爆弾を持てるもあり」と見出し。「3日午後3時高崎よりの情報によれば2日午後11時、東京市内の不逞鮮人約400名は捕縛され爆弾若干その他のものを押収されたと」という内容。東京の話を高崎で聞いたという伝聞の伝聞記事で、具体性がありません。

<9月4日付朝刊>
「不逞鮮人脱獄し軍隊と大衝突」という記事が載ります。横浜監獄の「不逞鮮人」が全部脱獄して市内を横行しているので歩兵第34連隊が出動、朝鮮人400人との間に大衝突をしたというもの。衝突したというのに、それ以上の情報がないのは不自然です。

 長野県内でも警戒が始まりました。「松本市大警戒 消防組出動す」の記事では、松本市の薬店に「3人の朝鮮人が身なりを変えて」塩酸カリを買いに来たが不審に思って売らず警察に通報。これを聞いた青年団が市役所に押しかけ警戒を陳情したので、市は消防の手配をし憲兵隊も活動、市民は戦々恐々としていると。

 隣接する山梨県では停電になっている甲府市で「市内真っ暗となっているため不逞鮮人が団体を組んで横行」し、連隊では総出で警戒に務めているが朝鮮人の数が多くて十分な警戒ができないので青年会総出で30人ずつ隊を組み、こん棒を持って警戒していると。影におびえ、出て行った自分たちにおびえているような話です。

<9月4日付号外>
 「横浜囚人解放」として、「横浜刑務所は火災のため囚人を解放したが解放せられた囚人中には朝鮮人も多数いた」とだけ報じています。なぜことさら「朝鮮人も多数いた」と強調するのか。それに、既に軍隊と衝突を起こしているとされているのに話が逆戻りしたのか。ちぐはぐな情報を精査せず載せたようです。

<5日付夕刊(4日発行)>
「本県鮮人取締」という記事で、長野県警察部が震災とともに「各地の不逞鮮人が暴行をたくましゅうするに鑑み」、各警察署に命じて朝鮮人の取締りを励行し厳重な監視をすると決定、碓氷峠は群馬県と連携し特に厳重に警戒するとしました。これは、警察の公式見解と言える、初めての記事です。読者は「不逞鮮人」の存在を肯定する方向で受け止めたでしょう。

長野市では軍人分会や消防組が避難してくる人に朝鮮人がいないか警戒と記事に。松本市では4日午前3時ごろ松本郵便局近くにいた2人の朝鮮人が、夜警中の消防手や青年団に打ちのめされ、松本署に突き出されたが、怪しくもなく放免されたと。とうとう、無実の被害が出てしまいました。

震災避難者の雑報の中で「3日御代田駅で4人の朝鮮人列車強盗が現れたことは既報のごとくだが、それ以降、乗客の戦々恐々たる度がその絶頂に達し、列車中に朝鮮人を発見すると「ソレそこに朝鮮人がいる」と騒ぎだし、下車せしめ警察官の手に渡している」という一文があります。

問題は「既報」の事件の概要です。4日付夕刊にあった記事には、「列車内で短刀を引き抜いた凶漢が金を出せと迫り」とあるだけ。列車はそのまま進行したと。警察の調べではなく、被害者の親戚の又聞き記事。いつの間にか「4人の朝鮮人列車強盗」になっています。

一方、この日から信濃毎日新聞記者による現地報告の連載があり、朝鮮人が襲われている場面をつづっています。上野の森で避難民の間を「鉄棒やこん棒を携えて鮮人狩りをしている有志もある。ときどき発見されては追われたり逃げそこなったりするものは書くこともできぬような凄い場面を見せられる」「『ウヌッ、畜生』との声を聴くとき、そこには血に濡れた鮮人を見出すのだ」

現地報告では、大和民労会という団体が「朝鮮人が爆弾を投じて火を放ち井戸に劇薬を投じて邦人を損なうことを発見したら」警察か会に引き渡せという宣伝ビラがあちこちに張ってあるとも。「鮮人を発見したらやっつけてください諸君、と宣伝する神経の尖ったような顔をした老人もある」という状態。当時の東京の雰囲気をよく伝えています。

<5日付朝刊>
「本県内の大警戒」と題した記事。長野県警察部の警戒は政府から発せられた模様として、朝鮮人労働者の多い場所で警戒していると伝えます。しかし、別の記事で警視庁は朝鮮人の大部分は何ら凶行をしないのでみだりに迫害、暴行を加えることなきよう注意を呼びかけている―としています。情報を整理していない印象を受けます。

ただ、警視庁も朝鮮人による放火はないと断定していません。そうしたあいまいな態度が判断をしづらくさせています。だから現地の情報に少しでも触れて確認したくなるのでしょう。避難者の談話の扱いが大きくなりがちです。「不逞鮮人等、石油で放火す」の記事は長野市出身者の談話で一部目撃談はあるものの、「石油で放火」の部分は基本的に又聞き情報。ですが、見出しにもして強調してしまっています。否定できない以上、やっぱりあったとのバイアスが働いているのでしょう。

一方、同じ紙面の、別の東京から避難してきた人の話。「朝鮮人ですか。だいぶ不穏なこともしているのは事実らしいです」と、朝鮮人が加えた行為はあいまいだが「皆殺気だっているので、朝鮮人は見つけ次第殴り殺されたのがあるようです。私も2か所でやられるところを見ました」と、朝鮮人への暴行は具体的です。ほかにも朝鮮人が物騒だとして、朝鮮人とみると寄ってたかって殴りつけ半死半生にしてしまう―との証言も載っています。

<9月6日付夕刊(5日発行)>
 2日に東京へ向かい4日に長野へ戻った人の体験談があります。池袋付近で「鮮人が石油の倉庫に火をつけようとしているのを警戒中の青年団らに取り押さえられたと人々が騒いでいかない方が良いと引き止めましたのを(略)強行しましたが、付近はこん棒を振っている青年団が殺気立って血眼で鮮人を探して歩いていました」。朝鮮人の行動は、ここでも伝聞です。記事は見出しに放火未遂を取り上げず、少し慎重になっているようです。

 この記事の下には「卑怯千万の市民 朝鮮飴屋を恐がる」との見出しで、長野市民が「あらゆる揣摩憶説をたくましくして『朝鮮飴屋をたたき殺してしまえ』とか市外に退去を命じてもらいたいと長野警察署に猛烈に申請して、朝鮮飴屋のごときは市民に包囲されて泣いているという」。長野署員は「他の鮮人も反対に戦々恐々としているありさまである。当方ではむしろかわいそうで慰めてやりたいほどである」と語っています。

<9月6日付朝刊>
 「東京長野間 新聞電話開通」との記事があり、ようやく情報の確認ができるようになってきた様子です。朝鮮人関係は流言飛語の話題で取り上げられています。「大震災の上田市中は流言飛語至るところに行われ爆弾を所持した鮮人3名が入り込んだの、いやそれは磯部駅でとらえられたとか、市民はいずれも戦々恐々としている3日夜、上田署某刑事が夜警中暗中に怪しき鮮人体の男をひっとらえたが(略)鮮人ではなく元上田署巡査であった」

 「流言飛語の張本人2名処分さる」の記事では、松本市では流言飛語行われつつあり4日夜、駅前で市民が朝鮮人と見誤られ、群衆に取り囲まれたが派出所に保護され難を逃れたとし、あまりの軽挙妄動を憂えるとしています。無根の風説を流したとして10人が検挙されたほか、青年会が非常識な宣伝ビラをまいたとしています。記事の論調が県民に落ち着くように呼びかけ始めた感じです。

<9月7日付夕刊(6日発行)>
 やっと「鮮人暴行等の流言飛語が遺憾 福田戒厳司令官談」との見出しが出ますが、記事は中途半端。「無頼漢取締 人身安定す 戒厳令奏功」との記事も「不逞鮮人および無頼漢の取締りを厳重にしたため一般の人身引き続き安定に向かいつつあり」としており、「不逞鮮人」がいたとの印象を与えています。ただ、ほかには関連記事や見聞の話がなく、新聞社側がより冷静になった印象を受けます。

<9月7日付朝刊>
 ようやく9月6日、政府が公式に朝鮮人への暴行を認めて戒めた内閣告示が出ました。「鮮人迫害と山本首相の告示 国民の節制を希望す」との見出し。もし不穏の動きがあれば速やかに軍隊か警察に通告するところ「民衆が自らみだりに鮮人に迫害を加えるがごときは、もとより日鮮同化の根本主義に背戻するものにしてまた諸外国に報ぜられて決して好ましきことにあらず」として自重を求めています。

<9月8日付夕刊(7日発行)>
 内閣告示は出ましたが、まだ記事中に朝鮮人との衝突の話題が出ます。横浜の被害まとめの中で「多摩川上流の不逞鮮人百余名が竹藪の中から出てきて目黒付近を襲撃したので在郷軍人青年らは竹やりを作り白鉢巻を目印にしてこれを撃退した」とあります。襲撃されてから竹やりをつくり白鉢巻をそろえてという不自然さがあります。特に見出しにはなっていません。

<9月8日付朝刊>
 「酒興の人騒がせ 無根の事実を宣伝す」との記事。6日夜、中野町の民家へ泥酔した男が兵士600人と朝鮮人600人が近くで衝突し一部があちこちに動いているとしたので、家人は近所に知らせ子供や女は泣き叫ぶ。警察に駆けつけ事実無根と分かり、泥酔した男が捕まったと。

<9月9日夕刊(8日発行)>
 「半鐘を打てと騒ぐ 震災を見てきて発狂」との記事。7日夕、長野市で「鮮人が押し寄せてきたから半鐘を打て」と大声を上げて男が触れ回ったので、あわてて飛び出すものもあったが様子がおかしいので巡査が取り押さえ取調べ。精神的に不安定なところにスズメ脅しの音を聞いて早合点したと。

<9月9日朝刊>
 犯罪事実の否定が掲載されます。「井戸の中に毒薬、放火強盗につき南谷検事正談」とした記事。東京地裁検事正によれば「今回の大災害につき不逞鮮人が徒党を組んで各所を徘徊し爆弾を投ずるとか井戸の中に毒を投入するとかあるいは放火強盗を働くとか種々の流言が行われているが7日夕刻までには左様な事実は絶対にない。もちろん鮮人中には不良の徒があるから警察署に検束して目下厳重取調べを進めているからあるいは少数の窃盗その他はあったかもしれないが流言のような犯罪は絶対にないと信ずる」。

 これに並べて「長野署鮮人保護」という記事が。長野市内に住む朝鮮人3人が流言飛語に震え上がり屋内にいて飢餓に瀕しているのを署員が発見し、旅費を与え7日夜に木曽須原へたたせた。8日夜には高崎で腕を切り落とされ上田で治療を受けた朝鮮人に帰国の旅費を与えてやったと。

 明らかに朝鮮人への記事の雰囲気が変化しました。しかし、同じ朝刊には「鮮人の背後に主義者の扇動 今やこれら不穏行動は跡を絶つに至れり」との記事。関東戒厳司令部発表で、「不逞鮮人の行動につき種々の風説喧伝されしが事実震災当時においてはその形跡なきにあらず」と、いくつかの例を挙げ「亀戸警察署において2日鮮人6人及びこれを扇動したる邦人主義者一派を拘束せるが警官の命に服せず暴行をあえてするのみならず他の拘禁者を使って不穏なる言辞を弄せる」(亀戸事件)等の事実はあったと強調。流言も主義者が流布したものが少なくなかったというストーリーを示します。一応、「自ら制裁を加えるがごときなきを望む」とはしていますが。

 以上、9月4日付夕刊から9日付朝刊まで見て来ました。長野県内では3日夕から5日にかけてが朝鮮人デマのピークだったようです。長野市の篠ノ井駅が東京と関西をつなぐ接点となり、多くの人が動くようになってデマも広がった様子です。また、警察や軍隊が応援で手薄になっているという状態が緊張感を増幅させた側面もあったようです。

 幸い、長野県内で朝鮮人が殺される事態はなかったようですが、多くの朝鮮人住民が迫害を受けた様子でした。政府のデマ否定や朝鮮人を責めることがおかしいとの表明が9月6日までずれ込んだことは、重大な問題だったでしょう。3日に上野の森の様子を伝えた記事からも、もっと早く政府が朝鮮人迫害の情報をつかめたはずです。そのころに声明が出ていれば、長野県内の混乱も少なかった可能性があります。

 雑報を一通り見ると、明快に朝鮮人の暴動行為を見聞して筋が通っている話や当局が発表した事例はないのに、人々の伝聞情報が独り歩きしていた様子が分かります。一方で朝鮮人が暴行されている現場はいくつも明確な目撃談がありました。上野の森の現地ルポは、人々が興奮した不安な中、情報を冷静に判断できなくなっている様子を浮き彫りにしています。また、ビラの張り出しがデマの増幅にもつながったと容易に想像できます。

 初期の報道は関東大震災という未曾有の出来事の中、正確な情報を確認できなくても、何か伝えねばとの思いが、本来慎重に扱うべき情報を垂れ流すような形になったと思えます。しかも、記事では伝聞や憶測で使い分けていても、読み手は「やはりそういうことがあったのだ」ととらえたでしょう。新聞が落ち着くのも、情報の入手や確認が容易になり、関係機関が正確な情報を出し始めた6日からでした。

 この論考は、新聞記事がどう伝えたかに絞って当時の情報の流れや人々の行動を検討しました。普段からの、朝鮮人への差別感情や蔑視がきっかけとなって、朝鮮人に日ごろのうっぷんを晴らされるのではないかと、自分たちの身に覚えがあるからこそ不安になり、やられる前にやっつけるという意識が広がったさまが分かります。そして権力者も同根であり、そうした行為を打ち消すのに時間がかかったといえるのではないでしょうか。そこに、震災を利用した社会主義者弾圧をもくろむ警察の狙いも絡んでいた様子が浮き彫りになったと思います。

2018年9月2日 記
2019年8月22日 追記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。
  

2018年09月02日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:22時事コラム

昭和14年5月に始まった廃品回収、同年10月にあらゆる値段を固定する9・18ストップ令で1年後にはとんでもない状態に

 こちらのチラシは昭和14年5月ごろ、長野県が作ったものです。日中戦争がなかなか終わらず、国内での物資のやりくりが次第に難しくなってきた時期です。

 国の方針もあり、長野県は廃品回収を促進させる「長野県廃品回収協議会」を結成。買出人組合も組織し、買いたたかないよう最低価格を設けました。このチラシは、各家庭に普及のために配ったとみられます。

 ところが、同年10月18日、国家総動員法に基づいて、あらゆる価格や賃金が9月18日の水準で固定されることになりました(9・18ストップ令)。価格が固定されてもモノがあるなら問題はないのですが、そもそも戦争に伴う物不足がインフレをよんでいたのでして、物がないのに表向きの価格を固定するとどうなるか。いわゆる「闇取引」がここから活発になり、公定価格とかけ離れた「闇値」が生まれていったのです。

 さて、最低買い出し価格が1銭だったビール瓶はどうなったでしょうか。昭和15年4月24日の信濃毎日新聞を見ると「長野市内では1本13銭が当たり前、うっかりしていると30銭くらいのビール瓶にぶつかることもある」とあります。これは瓶の製造が滞り、小売店ではビールやサイダーの商品を、空き瓶と引き換えでないと仕入れられないという「バーター制」が導入されたのが原因でした。小売店としては、商品がなくては困ります。たとえ利益が減っても瓶さえ確保できれば商売になるので「闇値」も吊り上るというわけです。

 警察としても、こうした状況を見逃しておくわけにはいきません。きちんと空き瓶の公定価格を守るよう、目を光らせるようになりました。その隙間を縫うような、リサイクル精神に反するとんでもない行動が広まっていると、昭和15年6月7日の信濃毎日新聞に掲載されていました。

 <砕けた瓶の方が高値 1本当り5、6銭>
 【松本】空き瓶の闇に厳重監視の目が光っているため、昨今ではだいたい公定価格で取引されている模様であるが、今度は新手の悩みが生まれてきた。ビール瓶の公定値段は1本2銭で問屋の手に渡るときは2銭8厘と規定されているが、破片を目方で取引すると1本当り5,6銭の高値を呼んでいるため、松本地方では満足な瓶をわざわざ粉砕して出荷する向きが激増してきた。
 そのまま使える瓶に対しわざわざ手数をかけて破砕するのだからずいぶんもったいない話ではあるが、之をさせないためには空き瓶の公定価格を引き上げる以外は適当なる対策が見当たらぬ模様で、松本警察署保安係も頭を悩ましている。

 瓶を砕いているのは消費者か小売店か、はっきりしませんが、小売店は瓶がほしいわけなので、ここで瓶を割っているのは消費者でしょう。一度は30銭とかで売れたのが2銭と厳しくなり、法の網を縫うように、ガラスくずの方が得と判断したのでしょう。最初に挙げたチラシ、こちらも1年もたたぬうちに、ほぼ実態をあらわさない「紙屑」となってしまっていたようです。

2018年8月29日 記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。


  

2018年08月29日 Posted by 信州戦争資料センター at 21:03収蔵品

「こんなのもあるんだよ」「いただいていいですか」「それはだめー」―でも、終戦直後の軍放出品をいただきました!

 松代大本営の通信ケーブルを譲って下さった須坂市のOさん。次々といろんなものを出してくれます。戦時下、国策推進に活躍した横山隆一のフクチャンを描いたうちわと、何やら不明の金属製の筒を見せてくれました。

 うちわは、フクチャンが飛行機に日の丸を書き「増産」と記したもの。こちらは、いつごろどのような経緯で家に来たかはわからないとのこと。「日本□学工業」とあり、疎開企業でしょうか。企業名はわざと一文字を白抜きにして読めなくしたようでした。そして金属製の筒。中はさびていて、数年前まで硝煙のにおいがしたということ。Oさんは「防空演習があって、訳が分からず泣いていたら『ほら、これやるぞ』と誰かが渡してくれて泣き止んだ時のもの。思い出の品だよ」。おそらく、発煙筒の筒でしょう。

 いずれも戦時下の貴重品です。「こちらはいただけますか」「だめー。これはとっておくから」。やはり、思い入れがあるものですからね。その後も、次々と買い集めた本や畑で出てきた土器片、石器などを見せてくれます。「おかあさん、おもち焼いて、あんこはさんで。そしたらもう少しいてもらえるでしょ」。確かに午前のお訪ねでしたが、もう一時間以上お話ししていました。でも、いろいろ話したかったんでしょうね。奥さんに「普段、こんなに話されるんですか」と尋ねると、ゆったりと頭を横に振られました。

 戦時下の書類などいろいろ出してもらいましたが、いずれも譲るのは「だめー」とのことでした。それでも、終戦間もなく近所の倉庫にあった軍関係物資が配られた際にもらったという放出品を2点、さらにいただきました。一つは九二式隠顕灯(昭和15年製)一式でした。

 ほこりまみれでしたが、反射鏡などきれいで保存状態はまずまず。

 「二つあるから、一つあげる。もう一つのほうはろうそく入れ、ちゃんとふたがついているけれど、そっちはだめ」。いえいえ、これで十分です。

 もう一つは、馬具でした。

 ほこりをとって少しみがいたら、ほぼ未使用かと思える状態です。終戦後の、管理がちょっと緩い雰囲気が伝わる貴重な品です。Oさんは終戦当時、3歳半ばでしたが「いろんなことが変化していったときで、終戦前後のことはよく覚えているんだよな」と。そんなこともあって戦争には関心があり、展示会にも来ていただいたようです。いただいた品を抱えて辞去させていただいたら、3時間余りが過ぎていました。やはり、伝えたいということと、価値の分かる人に自慢したいという思いもあったのかも(笑)。いやいや、貴重なお話しと品物、ありがとうございました。

 お礼に2015年に出版した図録をお渡ししました。すぐ開いて、写真をみて楽しそうにしていただいたのが何よりでした。

2018年8月28日 記

※このブログのコンテンツを整理したポータルサイト信州戦争資料センターもご利用ください。

  

2018年08月28日 Posted by 信州戦争資料センター at 22:59収蔵品